辺見庸を読み始めたのは、T.N.君と一緒にこの『Under the Sun』の作業をしていた時で、彼には随分いろいろな書籍や音楽を薦めて貰ったが、当時刊行されたばかりの辺見庸の『自分自身への審問』もその中の一冊だった。恥ずかしながら私はその時まで辺見庸という人を知らなかった。薦められて随分日が経ってから、本屋で気まぐれに『自分自身への審問』を手に取り、読んでみた。これはなかなか誰にでも書けるものではないな、と思い、彼の著作を本屋で見かける度に購入するようになった。
面白い文章もあれば不快になる文章もあるこの人特有の筆の運びは、万人向けのものではないかもしれない。しかし非常に大事なことを言っている。病に倒れた後はより一層切実に、人間存在の闇に焦点を当てた思索が深まり、この時代にあっては他に縋るものもない私は、つい辺見の文章に耽溺してしまう。しかしこれも、辺見の文章を読むことも、ひょっとしたら体の良い逃避でしかないのかもしれないという朧な自覚はある。多分それくらいのことは辺見も承知の事なのだと思う。「だったら、だったら私はどうやって闘えばいいんですか!」と絶叫をあげてしまいそうになる夜ばかり続く。どうにかこうにか薬で興奮を抑え込み、機械的な眠りを眠る。もうどうせなら絶望の作法を教わったほうが話が早いのかもしれない。近頃仏教にかまけている私の本心は実はそのあたりにあるのではないか。「絶望の作法を身に付ける」という意味において。