共通のお題を設けてみようということで、今週は「春」「出発」。前座を務めるのは、月曜担当の華氏451度でございます。これがほんとの、「1周遅れのトップ・ランナー」だなあ。UTSの企画なのでピシッと正座した感じで書かないとまずいかな、他の週の担当者から石が飛んでくるかな(どうせ投げるならオヒネリにしてほしい……)と思いつつ、そんな急に自己改造できない。というわけで、欠伸しながらのんびりとお付き合い下さいますよう。タイトルは「出発は明日を生きるために」――(「春・出発」、and なのかorなのかよくわからず、勝手に or と解釈)。カッコよさげであるが、なに、「出発」という言葉から連想されることをダラダラと書き並べてみるだけである。試運転ということで、変なところは御勘弁下さい。
1)「出発」への憧れ
子供の頃から、妙に「船出」という言葉が好きだった。いつか自分も、遠い世界、「ここではない場所」へ向けて船出したいと思っていた。10代半ばの頃、ある機会に、友人達にこんな言葉を贈ったことがある。
〈船出せよ 茫漠の闇に帆を上げて 終わりなき日々は幻夢なるとも〉
形だけ三十一文字にそろえてはいる(やや字余り)が、むろん短歌などと言えるしろものではない。だが、いかに拙劣ではあってもそれをつづった時の感覚だけは本物で、私は今もその自らの「少年の日」を愛している。そして、それを失うまいとも思っている。すべてが失われても私には幼年時代がある、と絶唱したのはヘルダーリンだっただろうか(記憶はかなり不確かだ……年のせいか? いや、そんな年じゃないッ……はず)。それに倣って言うならば、すべてが失われても私には子供の頃に垣間見た夢がある!
オトナになってからも戯れにポエムやショート・ポエムを作ってみることがあり、それらはすべて生まれた先から捨てているのだけれど、なぜかこの馬鹿馬鹿しいほど稚拙な言葉の塊だけは頭の中から捨てられない。もしかすると言葉の巧拙とは関係なく、これは私の原点であるのかも知れない。すべては幻かも知れず、この世では1000年経っても出会えぬものかも知れない。しかし私はその幻に向けて、今日も旅支度をしたい。そう……「旅立ちの支度」ほど、人をワクワクさせるものはないのだ。幼稚園の遠足の支度から始まって。そして、まだ見ぬ幻の地へ向けての旅立ちも……!!
今でも時々「旅立ち」の夢を見ることがある。ある時は紫色の雲に彩られ、ある時は地平線まで続く白茶けた砂漠を見晴るかしながら。出発というのは、おそらくは――私達の永遠の憧れである。そして誤解を恐れずに言うならば、それこそは「私が私であること」の唯一の証明であるかも知れない。何度でも何度でも、私は立ち上がり、旅立とうとする。それがただひとえに、小さい頃に夢見た世界との淡い約束に過ぎないとしても。
2)こんな「出発」はしたくない
だがいくら船出好きの私でも、御免被りたい出発はある。去る7日、石原慎太郎都知事(※)脚本・製作の映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』の制作発表がおこなわれた。民主党代表選出のニュースも幾分か気が重くなったが、ゾクッとする度合いはこっちの方が大きかったかも知れない。「特攻隊員たちの散りゆく青春を描いた作品」だそうだが、(脚本を読んでおらず、完成も待たずにこんなことを言うのは乱暴かも知れないが……あえて言う)これは愛国戦争プロパガンダ映画である。
※都知事なんかどうでもいい、という人もおられるかも知れないが、不幸にして私は都民(都民税もきっちり払っている)。気にせずにはおれないのだ。私の天敵のひとり、と言ってもいい。
記者会見場には「特攻隊員を演じた役者たちが特攻隊の姿で整列し、報道陣を敬礼で出迎えた」らしい。業務命令で記者会見に行かされた記者のかたがた、仕事とはいえ、本当に気の毒なことである(私ならどうしたかな。忙しいんで別の人に~と逃げまくり、どうしてもダメならこれも給料のうちとかブツブツ言いながら、仏頂面下げて行っただろうな……)。まさか、感動はしなかっただろうネ? 主演の窪塚洋介は自衛隊の訓練にも参加したそうで、会見では「未来の礎となってくれた英霊に、感謝と尊敬をもって自分の役を演じたいと思う」と語ったとか。英霊……英霊!! そんな言葉がいつ甦ったのか。私は聞いてないぞ。
私は「君のために死にに行」きたくなどなく、「君のために死にに行」ってほしくもない。君のために死ぬなどと言われれば、言われた方が迷惑だろう。こういうのを「自己陶酔的押しつけ」、いや、「精神的無理心中」、もっとくだけるなら「大きなお世話」と言う。子供や恋人から「ママ、僕はママのために死にに行くからね」「オレ、あんたのために死にに行くからさあ」と言われて喜ぶ女性がいるだろうか(もしいたら、是非ともインタビューに行ってみたい)。「ああ弟よ君を泣く、君死にたまふことなかれ」というのが普通の感覚ではあるまいか。
3)出発は明日を生きるために
出発というのは、自分のたどり着きたい所へ向けて踏み出す行為なのである。常に「明日」を夢見た行為である。死ぬために出発するということも、人によって、状況によってはあり得るかも知れない。死を覚悟してというなら、大いにあり得るだろう。だが、それらの場合でも、夢見られた明日がある。補陀落渡海というのは客観的に見れば自殺であるけれども、渡海する人々は浄土を目指していた。自己抹殺だけを目的とする行為は、出発とは名付けられないだろう。
「誰か他者のために」(家族のために、所属する集団のために、人類のために)出発することもむろん大いにあり得るのだが、自己犠牲を前提にした出発だけは私は是としない。「自己を犠牲にして」と高らかにいうのは一見崇高に見えるけれども、歪んだ陶酔の産物でしかないと私は思う(それを看板にしたわけではなく、結果として自分が犠牲になってしまった場合は別である)。そういう陶酔への巧みな誘いは常にあり、必要に応じてそれは増えてくる。私達はよほど警戒しなければならない。
単に他者の明日のためではなく、他者と自分とが共に見る明日のために出発の支度を。
ダラダラ書きすぎたかな? どの程度が適切は、今後のほかの曜日の記事を見つつ改めて考えるとして。では二番手三番手……そしてアンカーの方へと続く。お後がよろしいようで。