チキンレースのトリを勤めさせていただいておりますサタデーコラムニスト「
そぞろ日記」のみやう?でございます。
今週はこのチキンレースにスペシャルゲストがご参加いただけるかも?ということでとっても楽しみにしております。
さて、みなさまたいそう「愛」に苦しめられているようで、さぞやluxemburgさんがほくそえんでいることだろうと思います。私たちが七転八倒しながら自らの脳内を開陳する精神的ストリップ作業がこんなにもみなさまに好評であることについて、光栄ともなんともいえぬ微妙な感覚に囚われます。「私たちの苦しみがみなさんの喜び」であるという倒錯した状況からぜひとも「私たちの喜び」をみなさまと共有できるようなコラムに成長するといいなぁと思いつつ。
まず、月曜日からはじまりましてみなさんそれぞれの「愛」を切り取ろうと必死の作業。
まとまった文章で「愛」を語ることがいかに困難であるか。定義されることすら厳しく拒む「愛」にまさに脳みそがでんぐりかえるほどの苦しみを味わった様子がひしひしと伝わってきました。自分なりに「愛」ってなんだろうと1週間かけて考えました。
「愛」は間違いなくわたしたちの心から生まれでるものだ。
そして「愛」を歌う多くの詩がこの世に溢れている。
音楽や文学など様々な芸術は「愛」ゆえにこの世にある。
愛は語られるべきものではなく、歌われるべきものなのかもしれない。
なぜなら「愛」を言葉で切り取るのに物語らない散文的な手法で挑もうとすると、とかくそれは偽善的背徳的意味を帯び、素晴らしく美しいものであったはずの「愛」が無残にも陳腐でありふれた言葉に堕してしまうからだ。
「愛」は、物語や韻文でその輪郭を切り取るべきものであり、その内実を分析し解体すると同時に「愛」は「愛」と似て非なるものに変異してしまう。
私の中にある「愛」を自己の物語の経過において、「当時私はつきあっていた相手を愛していなかった」とか「現在相手を愛している」ということは表現できるのだが、この「愛」がどういった場合に生まれず、なぜ生まれるのかを抽出し説明することは不可能だ。
厳然と自分の内部に存在する「愛」であるのにその実態を表現できない。
相方を愛し、家族を愛し、友人を愛し、仲間を愛し、下手をすると人類だって愛しているかもしれないのにその「愛」を説明することが出来ない。
シンプルに実感としては「愛」が沸いてくるものであるにもかかわらず。
ただ、言えることはそれぞれの「愛」は心より沸き出もの。誰かによって「愛せよ」と言われたからといって「愛する」ことなどできようはずもなく、命令によって達成される「愛」は、結婚詐欺師の囁く「愛」と等価だ。
詐欺師から愛を取り戻そう。