サタデーコラムニスト「そぞろ日記」のみやう?でございます。
一週間に一回ぐらいなら…と安請け合いした連載も早いもので4回目、一月が過ぎようとしています。書き始めてああ今日の日もあと3時間でさようなら…。まともに書けるのかよ自分!などと悩むヒマなど無いのです。想像していた以上にみなさんの書くコラムが個性的で刺激的。しかもアツイ「愛」が伝わってくるものになっているので、感激しています。また、この連載コラムを楽しみに読んで頂いているみなさまがたの明日を生き抜く糧になれば嬉しいと思いつつ今週も殴り書きます。
「忘れていたもの」ということは、長い間記憶の隅に眠っていたことを思い出したということである。記憶の過程は記銘、保持、想起、(再生、再認、再構成)、忘却という流れになっている。人の脳はよく出来ていて必要のあるものと無いものを勝手に分けて記憶し、保持する。保持している記憶の量は膨大であるためにあまり使われない記憶は想起することが難しくなったり、忘却したりする。受験勉強や試験勉強の際に、大事な情報を再生できるようにすることに多くの人は苦労する。だが、人の記憶は再生が難しいとしてもそれぞれの人格を形成していく基礎となっている。記憶している言語によって人は思考し行動を決定する。明示的でない再生できない記憶は記憶ではないのだろうか。そうとも言い切れないように思うのは、「忘れる」ことも記憶の一つの過程だからだ。情報を取捨選択し生きていくことにとっての必要性の軽重で整理しなければ、情報過多によってまともな判断などできなくなると思われるからだ。
ただ、一瞬の勝手な整理が正しいとも限らない。間違って生きていくうえで大事な情報を他のスパム情報に紛れて「忘れてしまう」ことがありうるからだ。
そのうち「忘れていたもの」として再びふとした拍子に思い出す出来事も多い。例えば、理不尽なことを言われていた瞬間には言い返せなかったとしても、後から「てめぇあのときはこう言ってたじゃねぇか!」と思い出し悔しい思いをすることもよくある話だ(頭に血が昇って冷静ではないから思い出せないだけかもしれないが)。
ゆえに人の記憶はその重要性を常に検討して更新されていくものだ。
時々購入する週刊誌SPA!5/2・9合併号(「作る会教科書」で悪名高き扶桑社からでている(笑)が、インタビュー記事や特集に秀でた記事があるので購入することがある)に丁度「記憶」にまつわる面白そうな映画の紹介があった。
若年性アルツハイマー病をリアルに描いた小説「
明日の記憶」。
この原作に俳優渡辺謙が惚れこみ、映画化のために自らが奔走し、テレビドラマ「池袋ウエストゲートパーク」や「トリック」で有名な堤幸彦が監督した。(5月13日から東映系で上映)
ああ、これはいい映画だろうなと肌で感じる。糸井重里がヒロインを務める樋口可南子へのインタビュー記事を初めて書いていることからもスタッフや現場の熱気が伝わってくる。主役の渡辺謙さんとのメールのやり取りも公開されている。「
ほぼ日刊イトイ新聞」
原作もまだ未見なのだが、「記憶」することはその人の人格の中枢をなす以上それを失うことの痛切さは想像しがたい。
ストーリー紹介のなかにある「お前は平気なのか?俺が俺じゃなくなってしまっても」。の台詞だけで泣けてくる。泣けてくるのは私が善人だからではない。
父方の祖母は78歳で亡くなる前の数年間は老人性アルツハイマー症になってしまい、亡くなるまでの3年間ほどは私の実家で介護していた。介護といっても身体のほうは丈夫だったので、食事の面倒をみることと行方不明にならないように見守ること。くらいのものだったが。当時の私は中学2年生から高校1年生であったため、ボケるということの意味を解ってるようで全く解っていなかった。食事をした直後に「今日のごはんは何ですか?」と意味不明なことを言ったり、夜中に部屋を抜け出して近所に「助けてください」と駆け込んだりの異常行動に対して強いストレスを感じた。矍鑠としていた祖母が足の骨折がきっかけで、骨折をお見舞いに行ったときには普通に話ができていたのに、次に会ったときにはもう痴呆が酷くなり、見た目は変わらないのに、その言動だけが変わっていた。当初は、自分の母親の面倒を見ない他の兄弟に対する怒りを父と共有していたこともあって優しく接していた。だが、徐々に優しく接することが難しくなった。
中学生の時期は丁度いじめにあっていた時期とも重なったため、表面的には普通に振舞ってはいたが心の余裕など欠片も無い。狭量な人間だった。
数分前のことは覚えていないのに、少女時代を過ごした鎌倉での奉公先のことはよく憶えていて、全く同じ思い出話を繰り返し繰り返し話していた。
私の母のことを「はい奥様」と言ったりしたのは、祖母が少女時代に戻っていた証だということが今は理解できるのだが、当時は母に対して意地悪を言っているようにしか見えなかった。
私は祖母に全く優しく接することができなくなり同じ家に居ながら疎遠にしていた。そして、祖母は暑い夏の日他界した。
看護士だった母は、そんな祖母に常に普通に接し、自宅で他界した際に、「おかあちゃん、おかあちゃん」と泣き叫びながら失禁の止まらない祖母を抱きかかえて、亡くなったあと身体をきれいに拭いたそうだ。
暑い夏の日、学校に電話が入り、私は祖母の死を知らされ、帰宅の途についた。
夏には鹿児島市内に向かって吹くはずの風がその日は大隈半島に向かっていた。長らく降っていなかった火山灰がみるみる日差しの強い南国の空を覆い尽くし、昼間なのに夕方のように暗くなって帰宅を急ぐ私のうえに降り注いだ。
祖母に優しく接しなかった罰を受けていると思った。
だが、祖母が亡くなったことを悲しむ気持ちは不思議と湧いて来なかった。むしろ、あの理解不能な言動から開放されることにほっとした。
それから数年が経ち、大学生になった私は弟と会話をしていて、祖母の思い出話になった。
そして、あの日のことを。弟がぽつりと「あの日はものすごく空が暗くなって、痛いくらいに灰が降ってきたから、おばあちゃんに悪いことをした罰があたったと思った」といった。私は「忘れていたこと」を思い出した。自分が狭量な人間であることを。
いまは、記憶を失うことについては、周囲の人間の感じるストレスなど祖母自身が感じていた「自分が自分でなくなってしまう恐怖」と比べ物にならないことを理解することができるようになった。また、アルツハイマーになったからといって行動不能に陥る過程においては人間の自尊心は無くならないのだろうと祖母のことを思い出すたびに思う。
そして、元気だった頃の祖母が私の読む子供用の本をよく借りていったことを。少しはにかんで、小学校の門前に実家がありながら小学校もろくに行かせてもらえなかった祖母が「私はまともに学校に行けなかったから、あんたと同じくらいの本が丁度いいのよ」と言いながら、「ヘレン・ケラー」の伝記などをゆっくりかみしめるように読んでいたことを。
思い出したくない嫌な記憶を忘れていては、大切なことも一緒に忘れてしまう。悔恨の記憶とともに忘却の彼方に大切なものを埋めてしまってはいないだろうか。
「忘れていたこと」を思い出すことも必要なのだろう。忘れていたい記憶を呼び起こすことはパンドラの箱の一番奥に眠っている「希望」に通じるのだ。