今週のお題は「オススメ本、または今読んでいる本」だそうな。私はビョーキに近い本好きである。乗り物の中でも本を読んでいたく、出かける時にはハードカバーの本を1冊か、もしくは新書か文庫の類を2冊ほど携える。用事と用事の間で少し時間が空くことも珍しくないので、読書時間はたっぷりある。本好きというより、もしかしたら単なる活字中毒なのかも知れない。長距離電車の中で読むものが切れた時など、気がついたら網棚に放置されたスポーツ新聞を取って1面はむろんのこと、釣り情報だのポルノだのまで何となく読んでいたりして、しみじみと情けない(いや、ポルノは好きなんです。ポルノ、エロティシズム小説、何と言ってもいいけどさ。でもこれも、他の分野と同様に玉石混淆やからして)。読みながら散歩していて車にはねられかけ、「おまえは二宮金次郎か!」(古いなあ……これ読んでおられる方のうち、半数以上はわからないのではないか)と馬鹿にされたこともある。
ともかくそんなわけなので、本の話ならいくらでもやりますよ~。でもオススメ本と言われると困ったな。あれも薦めたい、これも薦めたい(昔から本を人に薦めるのが癖なのだ)。薦め出したら止まらない。えーい、もう、「今読んでいる本」の方にしてしまえ。厳密に言えば「読みかけ」のものはないので、「読みたてのほやほや」の本。ここ3日ほどの間に読んだのが、鈴木邦男『愛国者は信用できるか』(講談社新書)、南伸坊『仙人の壺』(新潮文庫)、結城昌治『夜の終る時』(中公文庫)、茨木のり子・長谷川宏『思索の淵にて――詩と哲学のデュオ』(近代出版)。このうち『夜の終る時』は昔読んだのだが、誰かが持って行ったようで本自体は手元から消えていた(そういう本は結構多い。薦めて、押しつけるように貸す結果そうなるのだから自業自得である)。偶然古書店で見つけ、古い知り合いに出会ったような気分にかられて衝動的に買ってしまった。ちなみに『仙人の壺』も、一緒に古書店で買った。
ど・れ・に・しようかな。教育基本法改定の問題もあるので、鈴木邦男の『愛国者は信用できるか』にしようか。
鈴木邦男について老婆心?ながら一言解説しておくと、彼は俗に「新右翼」と呼ばれる右翼・民族運動家。1970年代の初めに「一水会」を創設し、現在は同会の顧問を務めている。私は国家や天皇制などに対する鈴木邦男の考え方には、全く同調できない。まるっきり波長が合わない、と言っていい。天皇や皇族に対する恭しい言葉遣いにも違和感がある(私はあえて乱暴な言葉を使う気はないが、ごく普通の日本語で充分だと思い、長年そのようにしている)。君が代は5000回以上歌ったし、靖国神社には500回も参拝した、教育勅語も暗唱した――などというあたりは波長どころの話ではない。だが、彼(および一水会)は「反米愛国」であるがゆえに、現在の日本の政治を激しく否定する。たとえば「世界の保安官を気取り、世界的な和を乱した侵略戦争」としてイラク戦争に反対し、抗議運動を続けており(私も以前、左右共闘?のイラク戦争反対集会に出席したことがある)、そのあたりでは一水会的な思想の持ち主と手を携えることが可能だと思っている。
『愛国者は信用できるか』は、「国を愛している」と断言する鈴木邦男が、愛国心について書いた本である。彼はまえがきの部分で、次のように語る。
【最近、急に世の中が変わった。(略)にわか右翼、オタク右翼、新保守がドッと増えた。ネット右翼も大増殖した。この時とばかり政府も文部科学省も、日の丸・君が代を強制している。近いうちに改憲もされるだろう。教育基本法には愛国心を明記せよと言う。僕でさえ戸惑うほどだ】
愛国心は往々にして暴走する、と彼は言う。自分がいかに国を愛しているかという「自己申告」と「自慢話」の競争を生み、同時に他の人間がいかに国を愛していないかという、批判や糾弾の道具として使われるのだと。
彼は国家と人民、右と左が愛国心争奪戦を繰り広げてきた過去の歴史に触れた後、社民党の福島瑞穂党首が「アメリカの言いなりになっている首相より私の方が愛国者」と語ったこと、右陣営の中でも反米派と親米派が対立してそれぞれ自分の方が愛国者と主張していることなどから、その傾向は今の方が顕著だと語っている。だが、愛国心は人間の心の問題で、胸の中にしまっておけばよいことであり、「俺は愛国者だ」と声高に叫ぶのは見苦しい。愛国心という言葉は、口に出せば他人をそしる言葉になるというのが彼の「愛国心」観である。
だから彼は、憲法や教育基本法に「愛国心」を盛り込むことに反対する。「君が代・日の丸」も――彼はむろんこれらを尊重しているのだが、だからこそ強制して欲しくないと言う。君が代・日の丸がカワイソウだ、と言うのである。
著書の中の言葉を、いくつかランダムに取り上げておく。
【この国を愛するというなら、小さな所から出発すべきだ。自分の家庭を愛し、学校を愛し、街を愛し、市や県を愛し……。それが出来て初めて、その総体としての国を愛せるのではないか。それなのに、家では喧嘩し、学校では鼻つまみ、地域の人からも嫌われ、そのくせ「俺は愛国者だ!」と言う人がいる。そうした人の方が多いのかもしれない】
【東洋平和のため、中東の平和のため、本当の世界平和のため……。そういった名目で戦争は始められた。名目だけではない。本気で信じていた人も多かった。「こいつをやっつければ平和になる」と真剣に思い、戦争に訴えても平和を手に入れようとした。もちろんその時は、〈愛国心〉が動員された】
【「形」だけ先行すると「中身」「心」が付いてゆかない】
【かつては「愛国心」なんて「反動」だと思われ、タブーだった。個人を尊重しないで国家を第一に考えていたから、あのような無謀な戦争に突入したのだ。「愛国心」なんて、とんでもないと、長い間、思われてきた。ところが今のその反動で、思いっきり針が右に振り切れている。でも、この愛国心ブームも、そのうち冷静になる。その時、将来に向けて愛国心はどう考えたらいいのか】
【敬語の中でも、重要なのは謙譲語だ。自分の仲間として認め、その上で謙遜する。(略)自分の考えは愚考だし、家は拙宅だ。自分の書いたものは拙書だ。(略)社長、部長を一緒にして〈平の社員〉が弊社と言う。外からの電話に対しては「佐藤社長は……」などと言わない。「佐藤は」と呼び捨てにする。下も上もまとめて一緒にして、へりくだるのだ。これは他の国の言葉にはない長所だろう。(略)だったら国家だって謙遜して「弊国」「愚国」と言ったらいいだろう。ところが国家だけは謙遜しない】
【「言挙げしない」。これが日本人のよさであり美徳だった。それに「優しさ」「謙虚」「寛容」だ。これが日本精神であり、国を愛する心だ。ところがこの美徳を忘れ、傲慢で偏狭、押しつけがましい「愛国者」が急に増えた。「自分こそ愛国者だ」「いや俺の方こそ愛国者だ」と絶叫し、少しでも考えが違うと「反日だ!」「非国民だ!」と決めつけ排除する。しかしこういう者たちこそが日本の美徳を踏みにじり、最も「反日的」ではないのか】(これは、あとがきの中の文)
この本は、「国」という幻の麗人(実は菩薩の面をかぶった夜叉なのだけれども……怖)に憧れ、蜃気楼のような恋をして、「愛国心」なる言葉に酔っている若い人達に読んで欲しいと思う(我らが都知事にも読んで欲しいが、あの人は読んでも自分の中の何かを刺激されそうにもないな……)。私は愛国心の薄い人間だし(そもそも国という言葉自体が、納豆と同じぐらい苦手なのだ)、日本の伝統に対してもほとんど愛着はないが、「それを大切にしたいと思う気持ち」は大切にしたいと思っている。
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