晴耕雨読の早雲こと玄耕庵、素楽のおやじでございます。親友のTN君をはじめ皆様には愚息が大変お世話になっているとのこと、先ずは御礼申し上げます。
さて、先日、miyauさまからゲスト・コラムニストの指名を受まして、内心うろたえましたが、おやじの見栄で「快諾」したしだい。しばし駄文におつきあい下さい。
この詩集、「ルバイヤート」に出会ったのはかれこれ40年ほども前のこと。当時の私は「キュウ・テイダイ」になんとか滑り込んで、初めて家を離れ下宿生活を送っていた。暇をもてあまし、岩波100選などというものを一度に全部買い込んでは日に5,6冊も読むなどと無茶な読書をしていた頃のことだ。
一体読書などというもの、自然に包まれて育った健康なよい子のすることではない。その点せがれの素楽はよい子に育ってくれた。私の自慢である。 話が逸れてしまった、暇を持て余しているとはいえ、なぜにこんな乱読をしていたかと言えば、一つの強迫観念からである。
当時、私は理屈が勝ち、情緒的な人間ではなかった。感情、感動というものがあまりないと回りの人間には思われていたようだ。幼少の頃の友人達は私を面と向かっては「博士」と呼んでいたが、心の中では「ロボット」、機械のようだと思っていたものも多かったようだ。
私は、自分自身の価値体系というものを持ち合わせていなかったのである。この点はいまだに怪しいのであるが。感情、感動も勿論有ったのだが、それが周りの人間に通じるかどうか自信が無く、表現が遠慮がちになることが多かった。 まあこんなことは、世慣れていない若者にはありがちなことである。また、私はまだ人生をはじめたばかりで、価値体系はおろか、守るべきもの、大切なものをまだ持っていなかっただけなのであった。
しかし当時の私は、このことが人としてあるまじきことにおもえ、脅迫観念となっていた。そして、自前の「リンリ」「テツガク」を持とうと焦っていた。
そこで、ソクラテス、プラトン、アリストテレスから始まって、ニーチェ、キェルケゴール、ソシュール、実存主義、構造主義など手当たり次第に読みあさった。哲学事典、歴史書、キリスト教、仏教などの宗教書などを紐解きはじめたのもこの頃である。
この頃、老子、論語、孫子、史記、プルターク英雄伝、などと前後して手に入れたのが、「ルバイヤート」である。老子、孫子、プルターク、そしてオマル・ハイヤームはそのずっと手元に置くことになる。
解き得ぬ謎
チューリップのおもて、糸杉のあで姿よ、
わが面影のいかばかり麗しかろうと、
なんのためにこうしてわれを久遠の絵師は、
土のうてななんか飾ったものだろう?
若き日の人生への懐疑、後のイスラム哲学史上最も鮮明な唯物主義無神思想家の出発である。
魂よ、謎を解くことはお前には出来ない。
さかしい知者の立場になることは出来ない。
せめては酒と盃でこの世に楽土をひらこう。
あの世でお前が楽土にいけるときまってはいない。
造化の神を「さかしい知者」と言い切ってしまうオマルである。
ついでに、来世も否定してしまう。
生きてこの世の理を知り尽くした魂なら、
死してあの世の謎も解けたであろうか。
今おのが身にいて何もわからないお前に、
あした身をはなれて何がわかろうか?
生きのなやみ
地を固め天のめぐりをはじめたお前は
なんという痛恨を哀れな胸にあたえたのか?
紅玉の唇や蘭麝の黒髪をどれだけ
地の底の土の小宮にいれたのか?
神のように宇宙が自由に出来たらよかったろうに、
そしたらこんな宇宙は砕きすてたろうに。
何でも心のままになる自由な宇宙を
別に新しくつくり出したろうに。
若き日の謎を解くためにひたむきに真理を求め学問に没頭してゆく。
しかし、やがて、人間の自我にはかかわりなく、彼の生まれる前からそして彼の死後にも永劫に存在する自然の客観的リアリティーの認識、すなわち唯物論的自然観へと到達する。
われらの後にも世は永遠に続くよ、あゝ!
われらは影も形もなく消えるよ、あゝ!
来なかったとてなんの不足があろうあゝ!
行くからとてなんの変わりもないよ、あゝ!
短い人生への歎きではある。しかしその根底にある自然観、生命観は厭世に流れない、徹底した現世肯定、環境への適応を説く。
時はお前のために花の装いをこらしているのに、
道学者の言うことなどに耳をかたむけるものでない。
この野邊をを人はかぎりなく通って行く、
摘むべき花は早く摘むがよい、身を摘まれぬうちに。
彼の懐疑、無常観は学問が進むにつれても解消せず、生長し、深められて宇宙的広がりを持つに至った。精神は物質から生じたものであり、生命が物質の燃焼であることも知った。物質そのものは壺となり瓦となって変転を繰り返すのに、個我の生命だけは一度死ねば永遠に帰ってこないこともた知った。有と無の現象を知り、変転の本質を知り、宇宙の法則を知った。
しかし認識が深まれば深まるほど、自我の認識の限界を知らざるを得なかった。
ここで、私の思考は脱線する。
生命の必要条件は「局所」的なエントロピーの減少である。宇宙全体はエントロピー増大、つまり平均化、無秩序化へ向かう、つまりはネガティブ・フィードバックのループ内にある。
その中で、物質、エネルギーの流れのゆらぎが局所的にポジティブ・フィードバックを生じさせた。局所すなわち外界と区分される特異点である「場」はエネルギーと物質を外界から取り込みその「場」固有の常数で定められるスペクトルを持って発振し続ける。外界には、廃熱、廃物を捨てる。「場」の存在は必ず外界(環境)を変え、外界の変化は常数を変え、発振のスペクトルを変化させる。
このように、「生命」である「場」は非定常開放系であるといえる。
一つの生命である細胞が多数集まり、各々の置かれた「場」に応じた機能を分担し、生物というオーケストラのパートを務める。
多様なスペクトルを持つ、多様な楽器で演奏される調べ自体がある時自意識を持った。自我とはこの様なものであろうか?
生命は変化であり、変化を止めれば何も存在しない。すなはち、非定常、無常ということは生命にとって最も本質的な属性である。
生命は、変化を止めたとき、また局所性を失ったとき、環境に帰る。
まさに、自己同一性を保つためには変化し続けなければならない、という矛盾を根底に抱えているのが生命である。
生命にとっての敵は、平均化である。平均化に抗い続ける特異点が生命で有るからである。しかしいつかは必ず抗いきれず環境に吸収される。
もう一つの生命の特徴は、局所性とは矛盾するかのようではあるが、常に外界とやりとりをせずには存続できないと言うことである。物質の供給、エネルギーの供給が絶えれ、廃熱、廃物を外界に捨てられなければまた環境に吸収され生命は消え去る。
この「生命」の特質は、生命である人間の創り出す集団についてもまた当てはまるのではないか?
グローバル化は人間の局所的な集団である「コミュニティー」にエントロピー増大による「熱死」をもたらすのではないか?
市町村合併などは「局所性」を喪失させ、地域の生命を奪っているだけではないのか?
地域社会への物質、エネルギーの供給は絶たれてしまうのか?
局所的なエントロピー減少である生命は、外界のエントロピーを増大させ続ける。全体のエントロピーを増大させるための、いわば攪拌機が「生命」なのだろうか?
部分的な秩序を創ることでかえって全体の平均化、無秩序さを増やしているだけなのか?
などと、オマルを読みながら果てもなく脱線し続ける。
40年前、30年前、...そして現在もオマルの生き様にふれるたびに新たな思いが励起される。
最後に
人生はその日その夜を歎きのうちに
すごすような人にはもったいない。
君の器が砕けて土に散らぬまえに、
君は器の酒のめよ、琴のしらべに!
オマル・ハイヤームは、1040年頃ペルシャのホラサン州の州都で生まれた。このころ日本では後朱雀天皇の御代、摂関政治の盛期で藤原道長の息子頼通が関白を勤めていた。
セルジュク帝国のマリク・シャアに主席天文学者として仕へたりしている。
「代数学問題の解法研究」(3次方程式の一般解法)「ユークリッドの”エレメント”の難点に関する論文」、気象学、恒星表、インド算法による平方および立方根の求め方の正確度を検した書などの著作が知られる。思想、哲学に関する著作は残されていないが、「ルバイヤート」、「ノールズナーメ」によって片鱗が知られる。
ルバイヤートはルバイイイの複数形で、古代ペルシャの4行詩のことである。