小学校を卒業するときにサイン帳というのが流行って、お互いに1ページずつ、自分の趣味とか長所など書いて交換した。大部分相手に贈る言葉で埋めればよいのだが、自分のことを書く欄もあった。自分の趣味や長所ぐらいなら何となく書けたが、その中に「好きな言葉」という欄がはいっていて、それが意外に書けなかったことを覚えている。
小学校の頃の先生は、昔風の人で「為せば成る」だとか、「艱難汝を玉にす」などの言葉を年中吐いていたし、偉人伝のようなものを読まされることも多かったので、それらの言葉を書く友人もいた。私はそういう言葉や人が、立派であること自体は否定しないが、どこか自分のものにできなかった。
おそらく日本のヴァイオリン教育の草分けともいえる鈴木鎮一さんの本(「愛に生きる」・講談社現代新書)に演奏の悪い癖とか欠点というのはそれを直すのではなく、全く別に新たなくせをつくってそこをのばし、やがてそっちの方が育てば悪い演奏の癖が影を潜めるものなんだ、という話が出ている。何かをダメだと思ってそれと徹底的に対決するより、自分の中に自分の好きなところを見つけ、または自分が好きだと思うものをつくってそれをゆったりと育てていく、そういう考えに出会ったのは、私が鈴木の教則本をすべて終えてかなり経ってからのことだった。
その本を読んでからは、小学校の頃に立派な人や言葉について習ったこともなんだか自分を否定する教育だったと思うようになった。自分はダメで偉人は立派、ダメな自分を徹底的にたたき直して、何%かでもいいから偉人と置き換える。人生は自分とのたたかいだといっていた先生も、その対象である「自分」も教育の対象である子供も否定の対象だったのかもしれないと思えてきた。
それからの自分は、肩の力が抜けた、というより、力を入れるも抜くもない、ただ、好きだと思えることはしあわせだ、と思うようになった。
コップに半分の水が入っていて、もう半分なくなったと考えるか、まだ半分あると考えるか、という話を好む人もいる。私からすると「まだ」半分ある、というのは肯定的に見えてその実、半分なくなったことを前提に考えている否定的な見解のような気がする。もう半分まだ半分でもなく、ただ、今ある状態の自分がいて、その自分が何かをやろうとしていて、その対象を好きだと思っている、そういう自分が好きだと思えるならそれはすごくしあわせだ。もちろん、いろんな条件や制約はある。私にしても年中雲をつかむようなことを考えているのではなく、家庭教師をやっていた子供に「好きだというだけで何かできたような気になるのは安易だぞ」などと説教たれたこともある。それでも、もうちょっと月日が経つと、生まれてきた意味、生きている意味は、好きだと思うこと、何となくそう思えてきた。おそらく偉人伝に出てくる、よくこんな困難に耐えたな、というような人は別にその人が偉人伝を読んで自分を否定し、自分とのたたかいに勝ったというより、ただそれが好きだ、その自分が好きだと思えたというだけと思えてきた。「好きこそものの上手なれ」のような技術習得の心構えというレベルを超えて、好きだ、ということの中に自分を溶け込ませたい、どこかにある自分のそういう気持ちが、サイン帳に素直に箴言や格言を書かせなかったのだろう。
今なら自分の気持ちに素直に書ける。「好きだと思う自分を大切に」。
そんな自分でありたいし、そう思う人に「世の中そんなに甘いものじゃないぞ」といわないような社会、そういう人を自然に応援してくれるような社会であって欲しい。
ちょっとネット環境上厳しい場所(「塀の中」ではありませんが)にずっといますので、今回は書いただけでも、投稿しただけでもまあまあと、自分では思っております。一日早くなってしまい、すみません。