鶴見和子さんの訃報に接し、僕のようなにわか鶴見和子読者ではありますが、急遽、彼女の追悼文をコラムにしたいと思い、一筆書かせていただきました。またまた長くて恐縮ですが、勢い余って書き過ぎてしまいました。すみません。
95年に脳出血で倒れ、その後左半身麻痺による疼痛に晒されながらも、いいえむしろ、病気になられてから、何か憑き物が取れて新たな自分の可能性が開けた気がするとおっしゃり、車椅子を自在に操り、着物を着ての講演活動や執筆活動に精力的に取組んでいらっしゃいました。
人間が死ぬということが最後で最高のハレだと思う。こういうふうな身体になってから良くわかる。肉体を離れて魂が自由になるのよ。不自由になったために半分の自由を獲得できた。この次は最高のハレ。それは死ぬことなの。だから私、こうなったお陰で死ぬことがちっとも怖くないと分かったの。
対談の随所でそうおっしゃっていた鶴見さんが7月31日に亡くなられました。また僕の大切な方が亡くなってしまったと、残念でならないけれども、あえて、おめでとうと言葉をかけることにします。鶴見さんの魂を少しでも引き継ぎ伝えられたらと思います。
僕が鶴見和子さんと出会ったのは極々最近のことです。それもUnder the Sunがその出会いを演出してくれたと言っても過言ではありません。
晴耕雨読の早雲さんが、
Under the Sunにコラムを書いて下さりました。僕はあのコラムを読んで、4年前に読んで、「あー面白かった。しかし、うーん良くわからんなー。」と思っていた多田富雄の「免疫の意味論」が「
そうか、そういうことなのか」と、突如頭の中に蘇って来たのでした。それからもう一度「免疫の意味論」と対談集「生命のまなざし」を読み直し、いくつかの書評に当たっている時に、鶴見和子と多田富雄の対談集「邂逅」にめぐりあったのでした。この本はまさに社会学者と生命科学者が「自己」というものについて、かたや社会学者は「内発的発展論」としての「自己」を、かたや免疫学者は「自己言及性」としての「自己」を語り、その両者には厳然たる共通性が存在するという事実に僕は読みながら興奮を覚えました。この対談は、後遺症のため書くことに難儀する鶴見さんは、テープに声を吹き込み、脳梗塞の後遺症のため言葉をうまく発することの出来ない多田さんは、ワープロで言葉を打ち込み、往復書簡の形で行われました。そのもどかしいまでの時間が、二人から紡がれる言葉の鋭さと凛々しさを醸しだしていました。
それから僕は鶴見和子さんの対談集「鶴見和子・対話まんだら」(藤原書店)を何冊か手に取りました。
元東京大学医学部神経内科教授で、基底還元論的観念に陥っていた従来のリハビリテーション医学に疑問を呈し、「目標志向的アプローチ」による実践からリハビリテーション医学のあり方を根本から問い直した、鶴見さんの主治医でもある上田敏先生との対談「患者学のすすめ」は、「生きるとはどういうことなのか」「自立とはどういうことなのか」ということについて語っています。上田先生は本来リハビリテーションとは機能回復ではなく「権利の回復」であり、理想的な患者は「自己決定権」を行使する人であると言います。しかしながら、「自己決定権」の行使には「自己決定能力」が伴わなくてはなりません。「自己決定能力」の醸成には教育や啓蒙が不可欠ですが、患者自身のパターナリズムにも問題があります。リハビリテーションにおいては本人と専門家の協力が合わさらないと効果が期待できず、パターナリズムに依拠したり自己決定権を抜きにしては医療自体が成立し得ません。リハビリテーションとは、専門家のサポートを借りて、既存のコーピング・スキル(折り合いをつける術)を学習することであり、新たに自分でコーピング・スキルを発展させていく能力を身に付けることなのだと言います。まさに「内発的発展論」です。現在のインフォームド・コンセントにも問題があります。医療者も患者も「点」でしか「自己決定権」を捉えておらず、コーピング・スキルもヘチマもありません。それを、永続的な協力関係に基づく「インフォームド・コオペレーション」にしていくことが、医療者も患者も求められているのではないかとおっしゃられています。
これは医学に限ったことではありません。民主主義における「自己決定権」と「自己決定能力」についても同様です。「点」でしか捉えない「自己決定権」の行使(=選挙)、「自己決定能力」の不足、「自己決定権」の大前提となるアカンタビリティー(説明責任)の欠落。「根」は通底していることを痛感させられます。
石牟礼道子さんとの対談「言葉果つるところ」は、長くアメリカに滞在し、英語で文章を書き日本語に翻訳するという表現方法を専らとしていた鶴見さんが、自らのテーマであった「内発的発展論」をフィールドで実証しようと臨んだ水俣で、石牟礼さんや水俣病に苦しむ人々に出会い、これまで自らの操っていた言葉の軽さに恥入り、自らが身を置いていた近代に対する信奉が根底から覆された経験が語られています。化学工場チッソが不知火湾に垂れ流した有機水銀に晒された魚を食し、水俣病に侵された患者の話す「丸い言葉」。「四角い言葉」の鶴見さんには当初「丸い言葉」の意味が掴めませんでした。「聴く」こと、そして「丸い言葉」と「四角い言葉」の橋渡しをする石牟礼道子さんの導きで、その「丸い言葉」にはそしてその言葉の使い手たちは、陽いさまを拝む、山川を拝む、存在の母層を恭まう、一番下の名もなき神々とのへだてなき交流を基底とした「アニマ」(魂と表現するには使い古されすぎている)を宿していることを実感します。生命は自然と一体であり、人間もまた自然とともに生きあっており、自然・宇宙との一体化(アイデンティフィケーション)により永遠性、連続性が生まれます。それは信仰となり、水俣では仏教やキリスト教をも同一化して土着的な独自の信仰を築いきました。そして、400年前の島原の乱で抵抗した民衆達の魂が、水俣病患者の声無き声に連なり、「言葉果つるところ」のアニマが国をも超えて近代に虐げられし人々と繋がっていきます。
近代化論から展開された「内発的発展論」が、「内発性」とは何か、「内発性」とは「民衆の魂の中にある力」であり、かつ近代の知と対立するものではなく、両者が纏っていくものであるということが、鶴見さん自身の「魂」にすーっと入ってくる、「内発的発展論」の結実ともいえる体験が綴られています。この本はもっともっと魅力的で、全く文章力が無くて嫌になってしまいます。やはり「アニマ」の本質は「言葉果つるところ」なのです。伝えられないのです。堪忍。
「魂」や「アニマ」をどう語るか、つい「四角い言葉」で語ってしまいます。「四角い言葉」で語ると、たちまちどこにでも飛翔できる自由を失ってしまいます。お上から「心のノート」や「美しい日本」の如く降り注がれるものではなく、名も無き民衆の足元に横たわる大地から伸びる草花や小さな生き物達からの賜物なのでしょう。近代の知とアニマ(スピリチャリティー?自然回帰?魂の復権?・・・宗教による囲い込みでは無くて・・・いい言葉が見当たりません)の融合は21世紀的パラダイムなのだと思います。しかし「四角い言葉」はそのパラダイムを語るに限界を抱えています。一人ひとりの気付きを期待するほか無いのかもしれません。
元国連大学副学長で国際政治学者である武者小路公秀先生との対談「複数の東洋 複数の西洋―世界の知を結ぶ」では、「人間の安全保障」という人間の安全を中心に考えるところから始めなければいけない。発展の経路も形態も、それぞれの社会の伝統と自然生態系に根ざし、お互いそれを侵さないことが自分の安全にもなるという観点で対談を進めていきます。今日イスラム教原理主義、キリスト教原理主義、ユダヤ教原理主義と非寛容な一神教崇拝の宗教が暴力による対立を生んでいます。しかしながら、イスラム教にもスーフィズムというアニミズムに根ざした寛容な宗教があり、キリスト教にもローマカトリックやケルトにはやはりアニミズムと習合したキリスト教神秘思想が、またユダヤ教にも神秘思想があり、いずれもアニミズム的な寛容さを内在しています。そして東洋の思想は仏教もヒンズー教も神道も多神教的神秘思想を持っています。近代化やグローバリゼーションの問題を問い直し、お互いが共生していく社会を築いていく上で、近代において非合理的だと敬遠されてきた神秘思想を再評価し、各宗教の神秘思想を結び目として対話していくことが可能なのではないか。そして知識人たちは今日その事に気付き対話を始めていると述べられます。また、国家という枠を超えて、植民地主義、グローバリゼーションに晒される当事者としての民衆が連帯する潮流が世界各地で起きていると武者小路さんはおっしゃります。
そしてこれらは「内発的発展論」であり、内発的発展は、南方熊楠曼荼羅の「萃(すい)点」なのだと鶴見さんは言います。元来曼荼羅は大日如来を中央に配置し諸仏諸神を周辺に配置するものでしたが、南方曼荼羅では大日如来の位置を「萃点」(=集まるところと)とすることにより、矛盾対立するものを含めあらゆる要因、文化、思想が交流し影響しあい、またそこから流出する場所であると設定しなおしたことで、従来の静的なものから非常にダイナミックなものになります。そして「内発的発展論」のプロセス・モデルとして位置づけられます。個人、集団、地域、そしてより大きな集団が内発的発展を遂げ、なおかつ共生していく社会を形成していく上で、キーとなるプロセス・モデルが、南方曼荼羅の「すい点」なのだと言います。
鶴見和子対話まんだら(藤原書店)では、「内発的発展論」そして「萃点」を下敷きに、生命、個人、地域、そして国を超えて、人間のもって生まれた可能性を十分に発揮できる思想を模索し続けています。鶴見さんの思想の冒険はまさに新しいパラダイムの構築への挑戦です。国だけを語っても、個人だけを語っても、パラダイムは生まれないのだと前から感じていました。僕はずっとそのようなモヤモヤを抱えていましたが、彼女の対談集を読んで、なんかすっと「腑に落ちる」という感覚を覚えたのです。ああ、Under the Sunも「萃点」であり、また別の「萃点」の周辺なのだなと納得したのでした。
このグローバリゼーション吹き荒れる現在のその先に、民衆が手を取り合う希望の未来を見据え続けた鶴見さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。