こんばんわ~、今回も駆け込み乗車でございます。
前回の投稿からもう1ヵ月近くになるのですねぇ。その間、ついにアカンボウが産まれ出ちゃうし、この「あんだー・だ・さん」にお集まりの方々におかれましては、わたくしも含めて、希望もへったくれもないような重苦しい雰囲気が漂います(と勝手に想像しておりますが)今日このごろ、みなさん、いかがお過ごしですか(笑)
さて、実は今回のお題を頂いた直後から、「わたくしの番が来るまでに、絶対に誰かに書かれちゃうな」と思いつつ、「やっぱ、これっきゃないでしょ」と閃いたネタがありまして、幸い(?)まだどなたも手をつけておられないようなので、それではここで一曲・・・
♪♪ 希望という名の あなたをたずねて
♪♪ 遠い国へと また汽車にのる
♪♪ あなたは昔の あたしの思い出
♪♪ ふるさとの夢 はじめての恋
♪♪ けれどあたしが大人になった日に
♪♪ 黙ってどこかへ 立ち去ったあなた
♪♪ いつかあなたに また逢うまでは
♪♪ あたしの旅は 終わりのない旅
そう、藤田俊雄・作詞、いずみたく・作曲の『希望』という歌でございます。今調べたら、岸洋子が歌って1970年のレコード大賞に輝いたのだそうです。
ちなみに、これを書くために『希望』を検索してみたら、2チャンネルかどっかのサイトで「暗っ!」と書かれてました。忘年会なんかで歌うなよっと(笑)
でも根が明るいわたくしが(はあ?)、酔っ払ってひとりで夜道を歩いてるときなんかに自然と口から出るのは、いつもこの歌か、もうひとつ「手のひらを太陽に」だったんですよねぇ、特に若い頃には。そういう時代だったのかもしれません。
ところで中国の作家・魯迅は、フランスの詩人の作品を引用して、「絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じだ」とどこかで書いているそうです。また、「星の王子様」のサン=テグジュぺリは、「人類が最後に罹るのは、希望という病気である」という言葉を残したそうです。
どちらの言葉も、絶望があるからこそ希望が存在する意味を持つし、絶望を知ったからこそ最後に希望という病気に罹りえるというふうに、対極の「絶望」があってこその「希望」だと言っているようです。
♪♪ 希望という名の あなたをたずねて
♪♪ 今日もあてなく また汽車にのる
♪♪ あれからあたしは ただ一人きり
♪♪ 明日はどんな町につくやら
♪♪ あなたのうわさも 時折り聞くけど
♪♪ 見知らぬ誰かに すれちがうだけ
♪♪ いつもあなたの 名を呼びながら
♪♪ あたしの旅は 返事のない旅
それで今日のお題は「希望の兆し」ということですが、上の論法でいくと、希望の兆しを持つためにゃ、まず絶望してもらわにゃならんことになりますなぁ、とことん(笑)
ところが、やっかいなことに、今の世の中じゃ、なかなか「本格的な絶望」って奴が見えにくくなっているんじゃないでしょうか?いや、みんな誰だって絶望してるんですけどネ、それを感じるというか、表現するというか、開き直るというか、「おりゃあ、腹へって死にそうだぜぃ!」とか、「おっ溺れるぅ、助けてくれぇ!」とか、正直に自分のありのままの状況をシャウトする術を持たない、知らない、控えめ(=自分にゴーマン)なヒトが多すぎるというのが、絶望という状況を自分で認知できず、それを希望に転化することなく絶望のままで人生に終止符を打ってしまう人口を増やしているのではないでしょうか?
それを促進>転化するのが、ここ数年来の
現政権の教育方針「子供飼い馴らし計画」でしょう。こんな思想で飼い馴らされたら、絶望を見ることもなく一気にバラ色の恍惚の世界へと駆り立てられて戦地に赴く家畜軍団がどんどん養成されていくことでしょう。
♪♪ 希望という名の あなたをたずねて
♪♪ 寒い夜更けに また汽車にのる
♪♪ 悲しみだけが あたしの道連れ
♪♪ となりの席に あなたがいれば
♪♪ 涙ぐむとき そのとき聞こえる
♪♪ 希望という名の あなたのあの唄
♪♪ そうよあなたに また逢うために
♪♪ あたしの旅は いままた始まる
やっぱり、どんなに他人からネクラだと言われようと、酔っ払ったら『希望』と『手のひらを太陽に』という正反対の歌をシャウトしたくなるわたくしは、希望にも(そして絶望にも)恵まれててシアワセ者なのだと思います。
「目を醒まして、歌え・・・ドラマには終わりがあるが、人生には終わりがないのです」(寺山修司)
#この記事は
希望の名言集に掲載されている文言を主なよりどころとして書きました。