テーマが滅法やり辛く事前準備も叶わず、厚かましくも健全なる市井の方々と同等に晴天の下3連休満喫してしまい、一日遅れの投稿となってしまいました。すみませんm(_ _)m。
いつものことながら私事になり申し訳ないが、求める職の敷居を下げついに契約社員の求人に応募するも色好い返事が得られず、気晴らしの逃避行に出る三連休。相方と海沿いでまったりと過ごす。このコラムのこともあり、希望とは?てなこともチラと考えてみたりしたのだが、秋のビーチにへたり込んで波の音を聴きながら鰯雲を見上げていると、もうどうでもよくなってきたりもして、なかなか妙案浮かばず。とりあえず、手の届く範囲の人たちが笑って暮らしていればそれでいいや、と思ったりもし。それが実は一番大変なんだけど・・・。
へタレな学生だった頃、へタレな友人達と明け方までウダウダと飲みながら、「一体これから誰のための仕事をしていくのか」というようなバカ話をしたことがあった。金融危機後の就職氷河期で皆次々と不採用通知をコレクションしていく中、人格をも否定されているような感覚とそれまで感じたことのない類の疲労を見せる顔を持ち寄って、日々萎んでいく理想とそれに見合うだけの努力をしてこなかった自分達を悔いながら、ガシガシあたりめを齧っていた。どんよりと立ち込める煙草の煙の中で、「どんな仕事だってそれなりに意義をみつけられるし動機づけることはできるけど、私は顔の見える人のために仕事したいなぁ」と卓上の麻雀牌を弄びながらボソリつぶやく女子。あぁ、至極当然な幼稚な発言が出たな、と思いながらアクビを噛み殺した。相槌を打ってやる人間はおらず、宙ぶらりんになったつぶやきは換気のために開けた窓からそろそろと出て行った。
今年は久しぶりに新卒の求人市場は活況のようで、ピカピカの笑顔がブラウン管に映る。若者が社会に打って出るにあたって、希望は心強い杖だ。例えまがい物ですぐに折れる杖ではあっても。希望がなくても生きていけるようになるためには、それなりの修練がいる。ある分野に特化した希望をすり減らしてすり減らして、他の分野に振り分けていくことによって、それなりにバランスの取れた生活に移行していくことができる。それがいいことかどうかはわからないが、希望が叶わないことが多い浮世にあって長く生きてみたいのであれば、それはそれなりに必要な術だ。切実に望むことが少なくなるにつれ、食べ物の味がはっきりとわかるようになってきた気さえする。
いつかは酔いが冷めるように、夢も儚く消える。はちきれんばかりにまんまるだった希望も、はっきりしていればいるほど影が濃いことがわかる。影を見つめて払拭しようとするのも、影にうずくまるのも自由だ。影から目を逸らす人を詰問などできない。希望などなくても人は生きていける。いい生き方か悪い生き方かなど、他人に判断はできない。
稲穂とコスモスが揺れる中、相方の郷里をドライブした。山間に建つ小学校の前に車を停め、地面に腰を下ろした。「ここに通っていた頃は宇宙飛行士になりたかった」と相方は笑った。
家庭のある相方相手に望むことは多くはない。望むことが少なければ、穏やかに暮らせる。望むことが少なければ、ありがたさも増す。夢も希望も人生も、いつかは潰える。どうせなら笑って暮らしたいもんだ。
月が昇つて何を待つでもなく (山頭火)