今回のお題をいただいてから、ハッと気がつきました。
「年の終わりにその1年を振り返るという習慣を、わたしはいつやめてしまったのだろう...」
元来あんまり後ろを振り向かず、わがまま一杯ノーテンキに生きてきたsuyapでございますので、ここで付け焼刃的に一年をマトメようってのも無理だしぃ、今回はちょっと大きく出させていただくことにしました。それで、ちょろっと「わが人生を振り返って」みたいと思います。とはいっても、ここでわたしのオトコ(オンナ)遍歴などを振り返って披露するつもりはございませんので、その筋の方々はご安心を(笑)。とまあ、軽めのスタートをきりながら...
前回の記事にも書きましたが、わたしは今をときめくアベシンゾーさんと同世代でございます。いつまでたっても成長しきれないオトナコドモな精神性も共有している世代かもしれません。そんなわたしが思春期まっ盛りの華やかなりしころ、漠として持ってしまったのが「世界がいつ終わるともしれない不安」でした。それは、はっきりした意識としてではなく精神の基底に静かに淀む闇として、今でもわたしの存在の核の部分に横たわっています。この不安な闇を、ここでは仮にプーと呼ぶことにします。
小学生の頃、将来の夢はと聞かれて「公務員」と答えていたほど堅気に育ったわたしの人生が変調を来たしたのは(笑)、このプーが心に住みついてからでしょうか。何かをしゃかりきにやっている間は良いのですが、ちょっと躓いたり、ふっと暇になったりすると、プーが顔をもたげます。「あんたの理想どおりに世の中が進んだこと、一度だってなかったじゃない?」って。
1960年6月、日米安保条約に反対する学生・民衆が大勢で国会のまわりに押し寄せました。それに対して、アイゼンハワー大統領来日までに安保条約を通して格好をつけたかったアベシンゾーさんのお祖父さまは、警官隊を国会内に導入し、多数の怪我人、逮捕者を出し、そして女子学生が1人殺されました。
10年後の安保改訂時期に備えて、安保反対運動、ベトナム戦争反対運動が学園紛争とともに全国に広まりましたが、なぜか運動はバラバラに遮断され、セクト抗争に埋没し、「戦争はイヤだ」「米軍基地はいらない」「平和憲法を護ろう」という、人として当たり前の思いを持った多くの良識ある人々が運動の方向性を失い、政治を語ることから離れていきました。そして日米安保条約は、当たり前のことのように改訂強化されました。
♪ 友よ、夜明け前の闇の中で
♪ 友よ、戦いの炎を燃やせ (1968年 岡林 信康)
から
♪ 若かったあの頃 何も怖くなかった
♪ ただ貴方のやさしさが 怖かった (1973年 かぐや姫)
へと若者の歌も変わっていきました。
1960年代後半に
♪友よ♪と歌い上げた先輩たちも、それに続くわたしたちも、1970年代から80年代にかけて個人的な仕事やシアワセ、自己実現の追及にとそれなりに忙しく過ごし、頑張れば収入もそこそこついてきました。海外旅行ブームが起こり(起こされ)、グアム・ハワイは日本から気軽に行けるアメリカとして日本人観光客であふれるようになりました。
1980年代後半~90年代前半頃までは「一億総中流」意識とまでおだてられ、なんだか日本や日本人が本当に豊かになった気がして、好きな趣味に熱中したり海外旅行も相変わらず盛んでお土産もよく売れました。でも、それと同時にオーム真理教とか統一教会とか、創価学会とか、おかしなセクト(カルト)が密かに触手を伸ばしていた時代でもありました。それに、仕組まれたのかヒョウタンからコマか、自民党が一時野に下るという事態もおき、おおっと思ったのも束の間、政界大混乱と瞬く間の社民党フェイドアウト。そして1995年のサリン事変と一連の騒動・・・大手証券会社や銀行の倒産・・・バブル崩壊後の長引く不況・・・
次に来たのが1998年「国旗国歌法」
以後の事態は書くのも憚られる「日本国憲法」蹂躙への道。
今また、わたしの心のプーが囁いています。
「ほら、わかったでしょ。この世の道はこうなると決まってるのよ。あんたの思うような『理想の世の中』なんて夢でしかないのよ」と。
でも、もうわたしは神田川を歌いません。「あの頃」にはまだ時間があったけど、もう今は日本にも地球にも時間がない、わたしにも時間がないのが、わかっているから。
声が枯れてかすれ果てても、身はボロボロにやつれ老いさらばえても、たとえ軍靴で踏みつけられようとも、
♪友よ♪と心の連帯を叫び続けたいと思います。60年安保以降、巧妙に仕掛けられた敵の分断工作から我々を護るのは、この心の叫びだと思います。闇夜の山猫の唸りです。月夜の狼の遠吠えです。同じ心の闇プーを持つものの唸り声・叫び声は、山や谷を渡り、海を越え、どんな障壁をも突き抜けて繋がっていくのです。