「ふるさと」を想うとき、誰もが一度は諳んじたことがあるだろう。
この抒情詩の一節を。
ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの
よしや うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや
『小景異情 ~その二~ 』 室生犀星
「ふるさと」とは、生まれ育った町を遠く離れてのちに、初めて立ち現れる。
そして、「ふるさと」を想い描くとは、そのまま自分自身を振り返ることにもつながる。
甘美なる郷愁の念とともに愛する人や風景に想いを馳せ、自分の成長の糧は紛れもなく故郷にあったと悟る。けれども、時を経て様変わりしていく現実の「ふるさと」は、胸の内で次第に増幅する輝きとは乖離した「変貌」を遂げていく。
憧憬の“しるし”としての「ふるさと」は、いわば心の拠り所としていつまでも生き続けるが、現存する「ふるさと」は、個人の離愁などとはお構いなしに変わり続け、再び帰郷した者を見知らぬ「異郷人」として迎え入れることとなる。
「ふるさと」は、時に「甘い感傷」さえ遮る。
哲学者レヴィナスやバタイユの思想を用いつつ、混沌とした現代の状況を鮮やかに切り取る思想家西谷修は、『戦争論』所収の論稿「ふるさと、またはソラリスの海」に於いて、次のように述べている。
……「ふるさと」は、そこに立ち返る者にとって異郷であり、そこには安らぎや幸福を期待する自分を突き放す何かがある。
……二重の「ふるさと」、内面の主観的「ふるさと」と、外的現実として指定されている「ふるさと」とは、「私」の過去の「ふるさと」の幻影と残滓でしかない。そして「私のふるさと」は端的に存在しないのだ。なぜならそれは、失われたものとして生まれたのだから。
西谷修の云う“二重の「ふるさと」”とは、まず「自分がそこを後にし、離れてしまった、にもかかわらずそれ自身で存在し続ける実在の地」と、「異郷の地での経験を通して変容してゆく自分の奥深くに、成長を絶たれた切り株のようにして以前のままに残存する(内なるふるさと)」を指す。我々が想い描く「ふるさと」とは、大概は後者の「もはや自力では成長せず、別れた時のまま」のふるさとであろう。
さらに引用すれば、
……「ふるさと」は、それが失われたとき初めて、二重の対象(内的、外的)をもって言葉となる。「ふるさと」が、ある親密な一体性の感情と結びついているとしても、この二重の「ふるさと」はすでに分裂であり、分裂の片方であることによって、すでにそれ自身の喪失の代償でしかないのだ。
そして、「美しく優しく懐かしいもの」として心の内に在り続ける「ふるさと」を、西谷修は「想像の、あるいは鏡像(あるいは共同主観)の内にしかないナルシスの思い出にすぎない」と、極めて冷徹に考察する。
「ふるさと」の情景を思い描く時、そこに時間の流れはない。
「失われて生まれた<ふるさと>」は、既に自分の内にしか視ることができず、二度と「帰る」ことのできない地である。それだけになお、想いは一層募るのだろう。
そうした個人の儚き想いが結晶化した「ふるさと」。
その深い思索の途上を、踏み躙り、歪めようと謀る存在に視点を移そう。
卑劣為政者の「都合の良い」ように利用され続け、愚弄され続ける北海道夕張市の如き「見捨てられた」故郷を持つ人々にとっては、「実在の地」ばかりでなく、各々の儚い郷愁さえも否応もなく「殺されて」いく。在日米軍再編や自衛軍には湯水の如く血税を浪費するが、「見捨てられた」町で困窮する老人や子どもに対してはビタ一文も出さないのが、此の「麗しい」国家なのである。
西谷修の表現に倣えば、「失われて生まれた<ふるさと>」を再び喪失する、ということだ。そこに帰れば何時でも優しく温かく迎え入れてくれるはずの「ふるさと」は、汚辱と怒りともに失われていく。
無論、此の国の現状を云えば、或る地域に限定されるものではない。大袈裟に云えば、ニッポン全体が「ふるさと」喪失の危機にあるともいえる。
「想像」する能力さえ欠如した一部の卑しい者どもは、人々の心の支えともなる「ふるさと」を打ち壊し、子どもから老人まで<美しい国>という「妄想/幻想」が生み出した極めて抽象的且つ刹那的な低俗概念へと集束させることに血眼となっている。
個々人が心の中で創出する「ふるさと」へと執着することは、「国家」としての統一した思想統制を目論む為政者にとっては、「邪魔」なモノでしかなく、「ふるさと」=「美しい国ニッポン」でなくては意味が無いのである。
つまり、夕張市の如く破綻していく「ふるさと」は、此の国の愚劣為政者にとって誠に都合が良い事態といえよう。個人的想念に過ぎない「ふるさと」という何ひとつ「生産性の無い」土地に執着させるよりも、其の身ひとつが「戦(兵)力」となる「国家」「ニッポン」への帰属意識を高めることが重要なのだから。個々人に「ふるさと」を想起させるのは、「選挙」の時だけで充分なのである。そして「愛するふるさと」を守ることを確約したことで政治屋を名乗ることが叶った詐欺師どもは、平然と裏切り行為を行ない、地元民を国家へと従属させるべくあらゆる浅知恵を働かせるのである。
以下の拙文は、本稿のテーマに通ずるものなので、再掲しておきたい。
……「発展」とは名ばかりの無機質な全国均一の都市化現象。さらには、己ら自身が破壊し尽くした地上に「ニセモノ」の自然を造り出し、無意味なオブジェを乱立させ、鬱陶しい「郷愁」を強要する全国均一の観光地化現象。観光する側は、すぐ傍に実存する絶滅寸前の「野生」「自然」には眼もくれず、表面だけ「キレイ」になぞっただけの虚飾の「伝統」にアイデンティティを求め、束の間の癒しを得てのち、外国産の土産とともに帰途につく。
現代、新しく創造するものより何倍もの速さで我々は「何か」を失っていく。そして、或るものは過分な虚飾を施されて「伝統」という新たな名を付けられて、不気味な姿を忽然と現す。
得てして、それらは「国家」「ニッポン」を身にまとい、我々の心象風景さえも侵食し陵辱していくのである。
「美しい故郷の自然」は、「守るべきニッポンの地」へと変貌し、
「懐かしい故郷のうた」は、「誇るべきニッポンの歌」へと変移し、
「愛する故郷の人々」は、「愛すべきニッポン国民」へと変質していく。
愛しい「情景」さえも、甘ったるく卑しい「ニセモノ」に変幻しつつあるという現実。そして、或の侵略戦争がもたらした未曾有の惨禍や戦争犯罪人さえ「美しく」「尊い」モノとして幻惑されていく人間が多数存在するという事実。あたかも我々が延々と「共有」していたかの如き、ニッポンの実体無き形骸「伝統」の垂れ流し。個々人の「郷愁」を、ニッポン古来の「伝統」へと差し替えていくという詐術。
「愛国心」までは、ほんの一歩である。
【失われていく「情景」の中で】
……状況は更に悪化している。
我々は心の中にある「ふるさと」さえも、守り抜かねばならないらしい。