私には「ふるさと」のイメージがない。
映画やドラマでは田舎に帰った主人公が昔泳いだ川、虫取りをした森を歩きながら懐かしく昔を思い出すシーンがあるが、私が似たようなことを思い浮かべるとすれば舗装された道、コンクリートで固められた紫色の川である。英才教育こそされなかったが、いまのテレビゲーム世代の子供と何も変わるところはなく、どの草でどんなおもちゃができるなんて何一つ、自分の経験としては知らない。
人間というのは自然のめぐみの中で生きる動物なのだろうか、こんな私でも、田舎に帰ったドラマの主人公が照りつける日差しと、つんざくような蝉の鳴き声の中を一日中虫取りをした思い出に浸るシーンがあると、あり得ないはずなのに妙に懐かしいような気になる。
しかし、それは映像の中のものでしかない。
都会来て 夕立前の 風忘れ
いつか、ラジオでこんな俳句が紹介されていた。夕立前の風の皮膚感覚、におい、それが都会に来たら無臭の中で過ごすようになってしまい、すっかり忘れていた、ということなのだろう。私のふるさとは映像の中にしかないから、この感覚は残念ながら、懐かしいような気にすらさせてくれない。
最近生ゴミのコンポストに結構凝っている。ダンボール箱にピートモスとくん炭をいれてかき混ぜ、生ゴミを入れるだけ。1週間ほどすると、発熱して土のような臭いがしてくる。かき混ぜるとゴミの臭いではなく、土の臭いがする、私の知らない臭いだが、勝手に都会の片隅で、臭いのある「ふるさと」を味わっている。最終的には庭に撒いて、花や野菜の肥料として使う。狭いけれど田舎の土地ってこんな感じかな、と勝手に思う。
そういうとき、映像だけじゃない、やっぱり人間は自然の恵みの中で生きる動物なのではないか、と感じる。
こういう生活の中から少しずつふるさとを取り戻していく作業が、私のようにふるさとの欠落した人間にもできる。それは日本列島改造で全国にブルドーザーが走るとか、ふるさと創生でお金を撒くとか、美しい国とご大層に国家が上から与えてくださるというものではなく、懐かしさやにおいを求める一人一人の自然な気持ちの延長上にあるもののような気がする。
10日だと思っていたところ、さっき書けと言われてあわてて書いたのでちょっとまとまりがないかもしれません。0時になってしまいましたので、とにかく投稿させていただきました。