風薫る5月も半ばにさしかかっておりますが、どちらを向いても
きな臭い風ばかり... いったい日本は、世界は、この先どうなっちゃうんだろうと考え始めると、5月晴れのヤップの青空の下、気持ちは滅入るばかりの
suyapでございます。
ちゅら海をまもれ!沖縄・辺野古で座り込み中!のみなさん、ご苦労さまです。せめて今ここで出来ることは、日本の、いや世界のできるだけ多くの目を、辺野古で頑張っているオバア、オジイ、ネェネェ、ニィニィ、それにジュゴンやサンゴに、もっと注いでもらうように頑張ることではないでしょうか?
辺野古から緊急情報というページも立ち上がっています。いますぐ駆けつけられなくても、当分行けなくても、ずーっと行けなくても、気持ちだけは風に乗せて、辺野古に送ることはできますよね。
いままで、こういう事態になるまで、私たちは関心が薄すぎたようです。
毎日の生活に忙しすぎたようです。そして、いまも忙しい...
だけど、その生活の時間の一部を少しだけ割いて、
辺野古で何が起きているか、起きようとしているか、
目を離さないでおく、見ておく、できなら何か行動する、
これも、ひとつの大きなエネルギーになると思います。
きょう、
mixiを通したお友達(マイミク)さんの日記で、『映画春秋』創刊号(1946年8月)に載った、伊丹万作さん(伊丹十三さんのお父様でやはり映画監督だったようです)の「戦争責任者の問題」という記事を知りました。(出典は『伊丹万作全集1』 筑間書房 p.205-214だそうです)
俺は、君のためにこそ死ににいくなんてことを、心底の本心から言ったり思ったりした特攻隊員がどれくらいいたか疑問ですが、それと似たようなことを思わせたり言わせたりした日本社会が、1945年8月15日を境にひっくり返り、その3日後には占領にやってくるアメリカ軍兵士のための「慰安所」の準備に取りかかるほど、「粛々」として敗戦処理にあたっていたという事実を知った今、この伊丹万作さんの記事を読むのはつらいです。でもヒリヒリしながら全文を通して読むと、何か強いメッセージをもらって励まされたような気がしてきました。ここでは、その一部を引用させていただきます。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかし だまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。(太字 by suyap)
この文章が61年も前に書かれたものとは、とても思えないですね。
さあて、気を取り直して...
どんな風も吹き始めは緩やかです。
吹いているのかどうか、わからないくらいの空気の動きが出て
やがて、それが少しずつ方向性をもってくる
だから、吹いてみないと何ごとも始まりません。
始めはひとりで、ふうふうやっているだけでも
あちこちで、ひとりがふうふうやっていると、
やがて、いつかは...
あっ、それから、自然の風も、
ずっと同じ方向から吹き続けるもんじゃないんですよ。
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北北東
北東
東北東
東
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これくらいのバリエーションは、同じグループの風として、
それぞれが、それぞれの方向で吹いていければ
いいなと思います。
とにかく今は、辺野古のほうに向いて、風を送りましょう!