「トマよぉ、いるか?」
築後20年以上経つらしい、かなりくたびれたマンションの1階の片隅。半ば開け放された窓から野良猫ムルが首を突っ込んで呼ぶと、トマシーナ(通称トマ)がすっ飛んで来た。
「あ、兄貴。こんばんは~。何か元気ないけど、どうしたの」
「今日は全然、食い物にありついてなくてさぁ。腹が減って腹が減って。シャケ弁の残りか何かあったら、ちょいと戴こうと思ってさ。華氏に聞いてみてくんない?」
「うーん。今はダメだと思うよ。机に向かって頭抱えちゃってるから。下手に近寄らない方がいい雰囲気」
「頭抱えてる? なーんでまた」
「Under the Sunのコラムの日だっていうこと、ころっと忘れてたんだって。で、慌てて唸ってるわけ」
「相変わらずバカだなぁ、おまえんちの華氏の奴。……頭抱えて唸ったって、何も出て来やしないから諦めろって言ってやんな。無から有は生じない。これ、天地開闢以来の真理だぜ」
「そんなこと言わないでよぉ。可哀想じゃん。できれば手伝ってやりたいけど、僕もなかなかアイデア湧かなくてさ」
「へえ……おまえも結構ヒトが……じゃないや、ネコがいいんだな」
「だってやっぱりさ、一応食わせてもらってる義理もあるしィ」
「へへへ、義理ときやがった。義理堅い猫なんて、何か『マルキシズムを信奉する王様』とか『老後の心配をする少年』みてぇだな。あるのかよそんなもん、てな感じ」
「いーじゃん。あ、そうだ。兄貴、考えてやってよ」
「げっ、なんでおいらが……」
「兄貴、ヒマでしょ? それにさ、兄貴のおかげでコラムが仕上がったら、喜んで何か食べるもの用意してくれると思うよ」
「うーん。ま、いいか。……ところであのコラム、お題ってやつがあるだろ。今月は何なんだい」
「あつくるしいもの、だってさ」
「きゃはははは。あつくるしきもの、無い知恵を絞ろうとして七転八倒する華氏。貧乏揺すりの膝が机の脚にぶつかる音、冷や汗で濡れた髪が額に貼り付くさまも、いとあつくるし」
「もう……少しは真面目にやってよぉ」
「わ、わかったわかった。ベソかくんじゃねぇよ」
……というわけで、今回は都の東北を闊歩する牡猫・ムルと、その腰巾着のトマがひねり出した「あつくるしいもの」でございます。え? そのコンビの方があつくるしいって? す、すみません……。
◇◇◇◇◇
ムル「あつくるしいものって、考えてみりゃたくさんあるよな。ひとまず思いつくまま、適当に挙げてってみようか。たとえば、雨上がりの水たまりに、ガソリンでもこぼれたのか油が浮いてるところ。渋滞した高速道路を空から写した写真。右翼の街宣車。本体より大きいぐらいのド派手なストラップ付けた携帯電話。宝石だかをいっぱい付けた人間の女性。狭い檻の中を不機嫌そうに行ったり来たりしている動物園のライオン。急に思い出したけど、汗で化粧が半分剥げちまった華氏のおっかさんの顔なんかもあつくるしいわな」
トマ「うわ、そんなこと言うと華氏が怒るよ~。華氏ってマザコンなんだから」
ムル「おっとっと、冗談冗談。じゃ、続けようか」
トマ「考えてみたら、キリがないぐらいあるんだよね。窓に厚ぼったいカーテンが掛かってるのとか、ギュウギュウに広告チラシを突っ込まれた郵便受けとか、あつくるしいな~って思うしさ」
ムル「ま、おいらやおまえが挙げたのは、見た目とかにあつくるしいものだけどさ。実はさぁ、おいらが一番あつくるしいと思うのは、『道徳』ってやつなんだよな。教育再生会議とかが、嬉しげに騒いでいる類の」
トマ「え? 道徳? それが何であつくるしいの? 兄貴は道徳って嫌いなの?」
ムル「道徳というもの自身には、別に罪はねぇよ。特にモラルと言い換えてみたら、そりゃ大切なもんでしょとおいらなんぞも思うよな。おいら達だって、最低のモラルみたいなものは持ってるわけだしさ。でも、今の道徳っていう言葉は、色が着いてる気がしないかい? それがあつくるしいんだよな」
トマ「色って?」
ムル「単なる道徳じゃなくて、『国民の道徳』って色」
トマ「西部ナントカとかって評論家が、そういうタイトルの本を書いてたよね、確か」
ムル「よく知ってるじゃんか。おまえの生まれるずっと前の話だろうに。ま、ともかくだな。今の日本を見ていると、ドートク、ドートクという掛け声で国民を脅したりすかしたりして、こぢんまりとおとなしくまとめようとしてるような気がするんだよなぁ。高村光太郎っていう詩人が『根付けの国』っていう詩の中で『自分を知らない、こせこせした/命のやすい/見栄坊な/小さく固まって、納まり返った』……と日本人を呪詛しているんだ。その感覚がぜんぶ的を射てるかどうかはおいらは知らねーけどさ。為政者ってのは、命が安くて、小さく固まった国民を作りたいんじゃないかな。で、ちょいと昔はそれがかなり成功したんだと思う。ここ数十年の間にどんどん解放されてきたもんだから、こりゃいかんと思ってるんだろうな、きっと」
トマ「道徳道徳ってうるさく言えば、それが成功するわけ?」
ムル「誰かを支配するには、心を支配するのが一番だからね。て言うか、心を支配しなければ完全には支配できない。どんなに縛っても、心を縛れなければいつか牙を剥かれる恐れがあるだろ。面従腹背なんてやられるのは、為政者にとっては危なくて仕方ないのさ」
トマ「人間て、ほんとにほかの人間の心を支配できるの? 信じらんなーい」
ムル「おいら達にゃ信じられないけどさ、人間の世界ではいくらでもあるんだぜ。人間て、おいら達と比べてずっと五感が鈍いし、もっと悪いことに妙に賢いしな」
トマ「えっ、賢いってよくないのぉ?」
ムル「まともにそう聞かれると困るけどよ……知識とかを吸収して溜め込んでいく能力はすごいよな。学習能力ってやつか。ただ、うっかりするとろくでもないことを学んじゃう。その点、生き物として欠陥があるんだよなぁ」
トマ「つまりこれが正しいと教え込まれたら、無批判にって言うか、なーんも考えずにどんどん身に着けちゃったりする?」
ムル「そう言い切っちまうと語弊があるけどさ。そういうことも大いにある、と思うぜ。特に人間は群れ動物だから、慣習とか常識とかいうものに対して無意識のうちに信頼持ってるしな」
トマ「でもさあ……おいらにはまだピンと来ないんだよね。道徳をうるさく言うことが、なんで心の支配に結びつくのか」
ムル「誰にでも見える形で、直線的には結びつきゃしねぇさ。それだったらいくら何でも、国民は黙ってやしないだろ。一見綺麗な……糖衣にくるんだようなってのかね、文句のつけどころが難しい形で心を侵略していくわけ。なぁトマ、江戸時代だったかな、親孝行な人間がおかみに表彰されたってのかな、お褒めの言葉とご褒美をいただきました、って話を知ってるか?」
トマ「え? 何それ」
ムル「おいらも詳しくは知らないけどさ、ともかくお褒めに預かったんだとよ。寝たきりの姑を長年介護して、自分の食べるもの削ってでも姑に孝養尽くした嫁さんが褒められたとかさ。親のために遊郭に身売りするなんてのも、親孝行美談になったらしい。バカ言ってんじゃねぇ、とおいらは思うけどさ」
トマ「まあねえ……親孝行ってのは悪いことじゃないわけだし……」
ムル「そうそうそう。でもさあ、それが美談になったり、おかみがことさらに褒めたりするのって変だろ? それをやるんだよな、為政者ってのは。右手のやることを左手に知らせちゃいけないはずなのに、麗々しく持ち上げること自体うさん臭いんだけどさ。誰だって褒められると嬉しいわけでね、争ってイイコチャンになろうとする。そこがまあ、狙いのひとつなんだよなー」
トマ「イイコチャンのモデルを示して、みんながそれになろうとするように煽る。余念なからしめるってわけだね」
ムル「しばらく前からかまびすしく言われている愛国心とやらだって、心を支配する道具のひとつさ。愛国心でも愛郷心でもいいけど、そんなもん無いわいという人間はそんな多くないだろ」
トマ「華氏は無いって言ってるよ」
ムル「ああいうひねくれた奴は関係ねぇのッ。やっぱりさ、生まれ育った所って何となく大切じゃんか。おいら達だってそうだろ。そういう素朴な感覚みたいなものに、巧みにつけ込むんだよな。正面切って批判しにくいものを前面に出して、猫なで声で『基本的なモラルですよね』みたいに言いつのる。汚ねぇよなあ」
トマ「うん……」
ムル「誰が言っても真理は真理、という言い方があるだろ。それはまあ、一面では確かさ。隣のおっちゃんが言おうと右翼の親玉が言おうとストーカーで訴えられた男が言おうと、たとえばフランス革命が起きたのは18世紀末だし、円周率は3.14だしね。でも価値観を初めとして観念と関わることは、誰が言ったかがすっごい問題だと思うんだよな。わかりやすい話するとさ、平和は大切ですなんていう言葉も、人によって中身や思考のベクトルは違うに決まってるだろ」
トマ「わかりやすくないけど……ま、わかるかな。世界平和のためになんて言って、軍備増強したり戦争おっぱじめる国もあるもんね」
ムル「今の総理大臣が連呼している『美しい国』なんてのも、あつくるしいよな。美しい国、大いに結構。でもアンタに規定される筋合いはない。そうきっぱりと言わなければ、この国の国民はフィッシャーの不思議階段みたいな迷路に迷い込んで、いつの間にか美しくない地平に連れて行かれると思うんだよなあ」
トマ「でもさあ……おいら達には関係ないじゃーん。猫は国民じゃないもん」
ムル「おいおいトマよぉ、おいらのお株を奪うなっつーの。そりゃおいら達には関係ねぇけどさ、人間の中にもたくさん友達はいるわけでね。やっぱし少しは心配してやるのが筋ってもんだろ」
トマ「えへ、そうだよね。義理堅い猫としては、兄貴のその意見にだーいさんせい」
ムル「あつくるしいという感覚にはいろんな側面があるけど、おいらは『息苦しい』の手前イコール『あつくるしい』、みたいな気がしてならないんだ。ほんとにもうギリギリ息苦しくなる前に、抵抗しておかないと取り返しがつかないとおいらは思うんだよなあ……わかったら、今話してたことを華氏に言って来な」
トマ「おっけーい」
ムル「あ、食べるもんのこと、忘れんなよ。ハムかチーズの切れっ端があるとありがたいなっ」
(毎度の遅刻、申し訳ありません。日帰り出張で夜中に帰宅しました。……明日、というか今日は10日ぶりぐらいの休日なので、うかうかとこんな時間まで起きておりました。例によって酔っぱらって書いたので、つじつまの合わないところも御容赦……そろそろコラムはクビかな)