この国の政治家共は始終暴言を吐いておりますが、今年は特にそれが目立った気がする。今年というより、おそらくここ何年か、右上がりに増えてきたということだろうか。
今年、誰でもすぐ思い出すものを2,3挙げると……たとえば、久間防衛相原の「しょうがない」。なにィ? 原爆を落とされたのはしょうがないって? おっさん、何考えてんねん(失礼。母親が遊びに……というか大掃除しに来ているもんで、つられて関西弁になりました)。ほかにも麻生外相の「アルツハイマー」うんぬん、柳沢厚労相の「産む機械」、……枚挙にいとまがないとはこのことである。
どれを選ぶか迷うほどだが、やっぱりこれですか。久間防衛相の「しょうがない」。
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こういった発言を「失言」と呼ぶことがあるが、私は失言とは認めない。失言というのは要するに不注意な発言や、「ひとこと多い」発言を指す。結婚式のスピーチでうっかりといわゆる「禁句」(別れるとか切るとかいうのは禁句であるそうだ)を使ってしまったり、妙に張り切って家具の移動などしようとする高齢のおふくろさまに「腰傷めるから止めときィ」と言い、つい「年寄りの冷や水やでェ」と付け加える類である。ゴメンナサイ、といえばすむ。相当に気分を害されるおそれはあるが、まぁとりかえしのつかないほどのことではない。政治家の発言は、そんなかわいらしい?ものではないのだ。
ゴメンですまないのは、その発言が本人のトンデモナイ価値観や感性に由来しているものであり、ボロボロと出てくる政治家の「失言?」はまさしくそれにあたる(という意味のことを、自分のブログでも書いた覚えがある)。「しょうがない」にせよ「産む機械」にせよ、その人間の深層にそういう意識がない限り決して出てこない。
失言というのは「言葉の選び方を間違えた」もの。そう、結婚式で「ケーキカット」でなく「ケーキを切る」と言っちゃったようなものですね(私はケーキを切るでもいいと思うが、ここはまぁ、そういう言い方を気にする人もいるということを重視しよう)。政治家の「失言?」は、言葉の選び方が悪かったのではなく、根底にあるものが腐っているのである。だから失言ではなく、暴言である。
政治家たちもそれなりに(突っ込まれないよう)気を使っているから、言葉の選び方には慎重なはず。それなのに暴言が出てくるというのは、末期症状というほかない。そんなふうにタガがはずれるというのは、要するに我々主権者がとことん舐められているのだ。どうせあいつらアホだから何もできないさ、おかみに従順な子羊たちさ、と舐められているのである。次々と出てくる暴言は、そのことをイヤというほどわからせてくれた。一見常識人ふうの福田総理になってから、閣僚のトンデモ発言はやや下火になった感がある(むろん、幾つもあったけれど、安倍内閣の時より少し少ないような気がする)。だが、それもいつまで続くか。頭と感覚の中身は変わっていないのだから、いずれ同じことが繰り返される。
それにしても、大賞に選んだ「しょうがない」は、全く「どうしようもない」発言であった。彼らはおそらく、我々に「しょうがない」と思って欲しいのだ。国が決めたことだから、しょうがない。上の人がこういうから、しょうがない。みんながそうやっているから、しょうがない。
「しょうがない」というのは、奴隷のモラルである。と言うか、奴隷に押しつけられるモラル――諦めの思想である。過去の長い歴史において、多くの人々は「しょうがない」と思わされ続けてきた。人類はやっとのことで、そう考えずにすむ世界を手に入れたのである。もしくは、手に入れつつある(まだ地球上には、そう考えさせられる所もあるので……)。時計の針を戻そうとする者、時計の針を戻そうとする思想を許すな。
皆様、よいお年を。来年もゆるやかに手を結んでいきたいと思います。