以前、うちの犬を大学の付属動物病院に連れて行ったとき、さすがに普通の動物病院とは違い、重篤な病気のペットがたくさん診察を受けに来ていた。片目どころか目が見えないらしい犬、3本足、2本足の犬・・・。だが、どの犬も飼主の言葉にちぎれんばかりにしっぽを振り、全身で喜びを表していた。自分に残った目で飼主を一生懸命見る、自分に残った足でじゃれる、純粋な動物の姿を見ていると、何も無理をしていない。心の底から愛情を表現している。右目がないなら左目で見ればいいじゃない、右手がないなら左手でじゃれればいいじゃない。その姿に心を打たれる。あの動物たちが人間ならきっと、もっと美人だったら、もっとスラッとしていたら、4本足がそろっていて思いっきり走れれば・・・そんな願いが幸せを妨げていたに違いない。
動物たちは願いがないから幸せなのだろうか、人間も願いがない方がいいのだろうか、そんなこともないはずだ。
人間にはいろんな願いがあって、日常的な夢想癖のない人であっても、初詣でや七夕の短冊を前にして、何かお願いをする。願いがあるから、わくわくするからそれに向かって努力もするし、その結果うれしさも倍増する。
まあ当たり前のことだろう。なんとかとはさみは使いようで、悪い使い方をすれば不幸になるし、いい使い方をすれば幸せをもたらす。願いだって人間を不幸にも幸福にもする道具に過ぎないと考えれば、それがあるからいいとか悪いとか考えないで使い道を考えればいいのだ。
で、どう使う。何を願う。願いの正しい使い方・・・。そんなことを教えられる人がいたら、人生の正しい生き方もついでに教えてくれそうだ。動物病院の話は比較的最近だが、実は小さい頃から、「どうして人間はこんなこんなこと願って、勝手に不幸になるんだろう、想像なんてできなければいいのに」などと思うこともあった。ずっとわからなかったし今もわからない。
ただ、ある程度大人になってから心にとめていることくらいならある。
一つは静かに自分の心の中の本当の願いを探すこと、探し続けること。例えば、時々人の不幸を願ってしまうこともあるけれども、それは自分がうまくいかないことの裏返しに過ぎない。本当の願いは人が不幸になることよりも自分がしっかりやることだ。だから本当の願いをしっかり探す。
そして、動物は動物に与えられたものをこころから引き受けているから幸せなのだろう。人間もまた自分が願う動物であることを引き受けて初めて幸せになれる。人間が願いを持つことは、同時に苦しみを引き受けることでもある。それを引き受ける勇気も持って、またたゆまなく願い続けること、そう思ったとき、あの動物たちの純粋な目に少しは近づけるかもしれない。