コラムが大変遅くなり申し訳ございません。色々と書き始めていたのですが旨くまとまらなかったため今回は断念し、以前に自ブログで綴った拙文を若干手直しの上、掲載させて頂きます。どうぞお許しください。
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幼い頃に親しんだオスカー・ワイルドの『幸福の王子』は、今でも折にふれて読み返す唯一の童話集である。
表題作『幸福の王子』に初めて「ふれた」のは子ども向けに製作されたテレビ番組だった。鮮やかな色彩を放つ影絵による魅惑的な表現と、どうしようもなく切なく悲しい物語は、当時はまだ純真(笑)であった少年から当然の如く涙を絞り取っていった。童話集自体を「読んだ」記憶は定かではないのだが、たぶん少年少女向けの文庫だったように思う。美しい王子と、けな気なツバメの挿し絵とともに、読み手の想像力をかきたてるワイルドの端麗なる文章(無論翻訳者の腕もある)、王子とツバメの極限にまで高められた愛情表現が、心の奥深くまで沁み込んでいった。
物語を振り返ってみよう。
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北ヨーロッパの或る町。高い柱の上に立つ純金で覆われた「幸福の王子」の像があった。眼には二つのサファイア、剣の柄には紅いルビー。その輝かしき偶像は町の住人にとって誇りであった。秋から冬へと季節の変わる頃、渡り鳥である小さなツバメは愛する葦のつれない素振りにようやく踏ん切りをつけると、遠いエジプトへと旅立つ途中、黄金の王子の肩でひと休みした。
雲ひとつない星空の夜。
ツバメにぽとりと水滴が落ちてきた。見上げれば、両目いっぱいに涙を浮かべた王子。ツバメは尋ねた。「どうして泣いているの?」
嘗て幸福な環境に生まれ育ち、「快楽」という幸福のカタチしか知らずに死んだ王子は、今は黄金の像となって甦って後初めて、町の人々の悲惨な現状を知ることとなった。貧しき人々の姿をただ見ているだけしかできない現状に耐えかねた王子は、小さなツバメにお願いをした。
「ツバメさん。ツバメさん。私の剣の柄にあるルビーをあの貧しき人のもとへ届けてくれないか……」王子は我が身を美しく彩る宝飾の数々を、小さなツバメに託して、町の人々の悲しみを癒し、幸福を与えていく。
もう冬はそこまできており、早く旅立たなければならないツバメは焦っていた。だが、同時に純真な王子に次第に惹かれていることを感じていた。「とても不思議だけど、こんなに寒いのに、僕の心はとても温かい……」
王子は答える。「それはとても良いことをしたからだよ」
貧困により、病気の子どもを医者にもやれず川の水しか与えることのできない母親、空腹と寒さのために夢さえも諦めかけている青年、マッチが売れなければ父親に殴られてしまう少女、金持ちの家の前で倒れこむ憐れな乞食、薄暗い路地裏で飢えに苦しむ幼い兄弟……。
「幸福」とは、何か。
「幸福の王子」と呼ばれた私の存在とは、何であったのか。
小さなツバメは運び続けた。「幸福の王子」のカケラを、続くかぎり、その嘴に銜えて。自分に温かいまなざしを向けてくれる王子。その両目の美しいサファイアも、その身を包み込んでいた純金も、もう今は無い。
雪が降り、銀色に包まれた町が輝きだす。ツバメは既に最後の幸福の欠片を届けてしまっていた。王子の肩にとまり、遠いエジプトの夢のような暖かさ、不思議な出来事、その素晴らしさをいつまでも語り、心から王子を愛しているのを感じていく。今は遠くのエジプトで過ごすよりも、王子とともに過ごし彼の願いを叶えてあげることが、幸せのカタチであった。だが、終わりの日は、すぐそこまできていた。
「さようなら。愛しい王子さま」
とうとうエジプトへ行くのだね、と語りかけた盲目の王子は純金を剥がされて輝きを失い、暗い灰色の像となっていた。「違います。死の家へと行くんです」小さなツバメはそう言うと、最後の力を振り絞って飛び立ち、王子の唇にキスをした。……そして、絶命した。
愛する小さなツバメが、彼の足元に落ちた瞬間、「幸福の王子」の像の中で、何かが砕けた音がした。それは、彼の鉛の心臓が二つに割れた音だった……。
後日。
みすぼらしい王子の像を、市長と市会議員たちは打ちこわし、鋳造所の溶鉱炉で溶かすように命じた。己らの新たな像に創り上げるために。富と権力の象徴とするために。だが、鉛の心臓だけはどうしても溶けることなく、死んだツバメの横たわるゴミ溜めに捨てられた。
神は天使たちに言った。町で最も貴いものを二つもってきなさい、と。
……天使たちは迷うことなく、あのゴミ溜めを目ざした。
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耽美で静謐なその描写力、残酷なまでに自己犠牲の愛を説く物語の強烈な風刺は、次篇の『ナイチンゲールと紅い薔薇』へと継がれ、更なる昇華へと至る。
美しい身体を飾っていた純金は、いわば人間の欲の象徴ともいえる。
死してなお、権力者たちに「富」と「美」の偶像として崇められ、皮肉にも「幸福の王子」と呼ばれた彼は、高い柱の上から貧しき人々の姿を視ることで、初めて「幸福とは何か」に思いを馳せることができた。「富」と「美」で得られる「幸福」などに、いったい何の価値があろうか。そして生まれながらにしてそれらを持ち得ない人々にとって、「幸福」とはいったい何であろうか、と。
だが、今となっては何一つ成すこともできない。
ただ、涙を流すこと以外は。
彼は名も無き小さなツバメという伴侶を得た。穢れた虚飾を剥ぎ取り、富める人間たちの虚像であった己から開放され、さらに町の人々を幸福へと導く王子は、ようやくこの時点でささやかな「幸福」を手に入れたといえる。自らが虚構/虚栄の塊りであったという、哀しい事実。その偶像を破壊することにより、深層で渇望していた「愛する」ことの意味を知ることもできた。例え、その尊い「愛」が、愛する者の「死」と引き換えであり、さらに自らの心臓を引き裂く結果となろうとも。
「幸福の王子」が、本当の「幸福」に包まれながらも、一瞬にして散っていったことを、救済された町の貧しき人々が知ることは決してなく、彼は名も無き小さなツバメとともに、神の国へと導かれていく。
薄汚れた王子の像を引きずり下ろす、町の権力者の顔は醜く歪み、今度はオレが町のみんなに崇拝される像になってやる、と意気込む。強欲と虚栄心に溺れたその醜態を嘲笑するのはたやすい。富める者、権力を持つ者ほど、生きながらにして己の銅像や肖像画を作るものである。剥き出しの権力志向、差別意識と自己陶酔は、過去/現在を問わず此の国の腑抜け政治屋どもを見れば明らかだ。富と権力という虚飾を剥がし、生身の人間としての姿を晒せば、差別していた者の足元にも及ばぬ卑怯者に過ぎない。
人間は、すべて平等に生まれつく。
だが、社会システムに組み込まれた差別は生を享けて直ぐに其の身に刻印され、さらに受け継がれ、富める者と貧しき者、力を持つ者と持たざる者、差別する側と差別される側という歴然たる棲み分けが極めて「機械的」に成されていく。
「幸福」に手を伸ばそうとも、ひらひらと舞う「金」を掴み取ろうとしようとも、足首に絡み付いた鎖がやがて身体中へと巻き付いて、身動きも出来ないままに全身を締め付けていくのである。
「幸福の王子」の最期と同じく、今の我々は「盲目」であるように思う。
だが、彼と違うのは、自らの手で眼を塞いでいるという点だ。
そして……耳をすませば、聞こえてくるのだ。
我々のすぐ傍にある暗闇の中で、砕け散るあの哀しい心臓の音を。