【年年歳歳花……】
年年歳歳花相似 (年年歳歳花あい似たり)
歳歳年年人不同 (歳歳年年人同じからず)
初唐の詩人劉廷芝の詩「代悲白頭翁」の中の詩句です。
年ごとに花は同じでも、年ごとに花を愛でる者は違う……というような意味でしょうか?
花の無謬性に対して、ヒトの限りある生、無常を詠ったものでしょう。
冬は眠りの時です。
水がぬるみ、目覚めた樹々や花々は、大きくのびをするかのように一斉に生を謳歌しはじめます。
何しろコチラは、霜を踏みしめながらの外仕事。
梅の花の蕾も、鶯の最初のさえずりも、誰よりも早く体感するのだから、自然とそんな感慨も生まれてこようというモノ。
春をむかえ家の庭の花も、寒の終わりから梅がほころび、しだれ桜と桃が散れば、たちまち新緑につつまれつつあります。
玄関の花蘇芳やシランが赤紫色に華やげば、ヤマツツジも赤橙色に花ひらき、牡丹の蕾もふくらみはじめています。
ヤマコウバシ、姫シャら、ヤマボウシと植えてきた前庭では、今年から仲間入りをしたカマツカが白く雛に可憐な花をつけだし、樹全体が淡い白無垢をまとっているかのようです。
さて……唐の詩人は「花は変わらぬ……」などとしたり顔で詠ったモノだが、冗談ではない。
花も樹々も同じモノはふたつとなく、年ごとに日ごとにその在りようは違います。
寒、暖、湿、乾、照、雨、風、土……
何かがほんのわずかに違っても、花は前の花とは決して同じではなく、そのひとつひとつが時を内包しており、今のためにのみ在するのです。
先日、近所の家が取り壊され、新たに家が建ちはじめています。
遠くに住んでいた息子夫婦が帰ってくるというので、建てなおしているらしいのですが、昔からある幹まわりがふたかかえはあろうと思われる老木を、一本のこらず伐採してしまいました。
あの樹々は、南からの大風をさえぎるために、どこの家にでも昔から植わっているモノです。
それを切り倒してしまって、どうするのだろうか?
おそらく工事のジャマになるから伐採したのでしょうが、いくら高い塀を建てたって、代わりにはならないだろに……あぁ……もったいない。
あの樹があれだけの大きさになるのに、一体どれぐらいの時間がかかったんでしょうか?
ボクらがどんなにお金をつんでも、時間だけは手に入れられません。
元にもどしたくても、不可能です。
その家屋の主が老いて、その子や孫の代になっても、その樹はおそらく息吹きつづけるでしょう。
ヒトの生の営みには、まるで無頓着に。
花や樹々と相対して、どうしようもなく感じるのは、時の尺度の違いです。
その短さも、はるかに長い時も、人間のモノとはまるで異なります。
手に入れるコトができない時間をそばにおいておける、ソレがどんなに贅沢なコトか……