子供が本を読まなくなったといわれるようになって久しいが、その傾向はずっと続いているようだ。「それは活字離れではない、携帯やパソコンのメールなど、文章を読む量は以前と変わらない」という意見もあるらしい。もちろん、文字からその意味や世界を構築するという点ではメールやブログも悪くない。しかし、子供が本を読まないというのは、やはり子供のころにいい物語を読むと、それが血となり肉となってその子供の言語世界を作っていくということも大きいように思う。
いい物語がたくさんあるはずなのに、実はその物語を排斥しているのは大人たちだ。私が小さいころに好きだったのは浜田広助、小川未明といった作者たちで、今でも捨てられた動物を飼う気になるのは、さまよい歩き、しょんぼりする動物の姿を見ると、あの童話を読んだときのかわいそうな動物たち、主人公たちの姿が思い浮かぶからだ。
反小泉ブロガー同盟に参加するときにも書いたけれど、小川未明の「赤いろうそくと人魚」で人魚のお母さんが、人間社会というのはそれはそれは情けの深い世界で、ぜひこの子を人間の社会で、と娘を海から送り出す。しかし、娘は金に目のくらんだ人たちのために売られ、その日は人魚のお母さんの泣き声が聞こえるように海が荒れる。小さい頃何度も読んではその度に泣いた。このお母さんが「思った通り、人間の社会は暖かい。娘を人間社会に送り出してよかった」と喜ぶような社会にしたい、小さいながらもそう思った。
残念ながらこういう児童文学は、実は権力者にとっては都合が悪いらしい。子供がやさしい心をもってくれては困る、だからこれらの作品は昔から排斥される傾向にある。小川未明や浜田広介も昔排斥されたし、戦後も教科書問題で「べろだしチョンマ」という物語、果ては「大きなかぶ」まで弱いものが協力するからダメだ、と真顔で批判する人がいた。
にもかかわらず、人々の人間性を求める叫びは希望を求め、文学となって時代を超えてきた。今では実感できないかもしれないが、私が小さい頃読み、劇でも観た「信太の森のきつね」はきつねがその里へ帰らなければならない悲しい別離の話だが、きつねはほかの人とともに暮らせない被差別部落民を表している。
小難しいことはいい、たいそうな哲学者の言葉、政治学者の学説なんて書かなくていいから、子供にもやさしく、だけど胸を張って語れるような話がしたい。またそれが堂々と話せる社会であって欲しい。
今も子供の文学は私の最良の先生だとおもっている。
(luxemburg)