前座の華氏451度です。今週は自称アルコール依存症の発掘屋さんの出題で「酒」。簡単そうで、結構難しいなあ。亡父は相当の飲兵衛だったそうですし、母方の親族にも飲み助が多いのですが、私は下戸。母親がアルコールに弱い体質なので、それが幾分か遺伝したのでしょう。母親のようにコップ半分のビールでひっくり返ったりはしませんけれど、少量の酒で酔っぱらう。もっとも好きなことは好きですから、上戸だったら浴びるほど飲んで肝臓でも傷めていたかも知れません。かえってよかったのかな。ただし、好きといっても味はわからない。何だかんだとウンチク並べて飲まされたって、何処がそれほど感動的なのかあまりわからない人間です。
ですから「酒」を巡ってお話できることはあまり無いのですが……前座が恥をかかないと、1週間が始まらない。今週もまた、羅針盤なしでとにかく舟を漕ぎ出すことにいたしましょう。チキン・レース、最初に音をあげるのはやはり私かな。
1.酒は独りで飲むべかりけり
おそらく下戸のせいもあるだろうが(強い人と同じペースでは飲めない)、私は基本的に独りで飲む方が好きだ。僅かな酒で軽く酔い、低く音楽を流して本を読みながらフワフワと想像(と言うよりほとんど妄想)の世界に遊んでいるのが最も心休まるひとときなのである。
「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」
「われとわが悩める魂の黒髪を撫づるとごとく酒は飲むなり」
――などと若山牧水はうたった。牧水はやや感傷過多のところがあってさほど好みではないが、酒を詠んだ歌はなかなかいい。春の夜であろうと秋の夜であろうと、私は独り黙して酒を飲む(実は今も飲みながら書いている。ギリギリにならないと宿題やらない劣等生なのである)。
2.人と飲む時は相手を選ぶ
むろん私も人と一緒に飲むことはある。時には朝まで話をしながら(チビチビと)飲むこともある。ただ、誰とでも飲むわけではない。私にとって酒を飲むというのは最もプライベートな行為のひとつだから、時間を共有するのが歓びという相手以外とはできれば御免被りたいのである。以前組織に属していた時はご多分に漏れずしばしば飲み会が開かれたが、ほとんど断っていた。最低限のお付き合いという感覚で、新入社員歓迎会や忘年会に顔を出した程度である。変人とか気難し屋などと言われたこともあるけれど、何がカナシクて一緒に飲みたくもない連中と飲まねばならないのか。いや、全員が飲みたくない相手だったわけではない。一部、飲みたくない相手もいたというだけのことである。同僚の中には気の合う連中もいて、彼らとはよく誘い合わせて飲みに行った。
ほかの人は知らないが、私の場合「他者と一緒に飲む酒」はコミュニケーションの小道具。時間と言葉を共有するにあたっての、いわば刺身のツマである。酒ではなく、朝までコーヒーばかり飲んでいたっていいのだ。
などと言っても勿論のこと、生活していれば「付き合い酒」を飲む機会もままある。たとえば仕事の絡みで是非一杯と言われれば付き合ってしまうし、何となく気まずい思いを消すために酒の助けを借りることもないではない。だが本当は、そんな酒など飲みたくないのである。
3.酩酊ということ
人間はなぜ酒を飲むのだろう(猿も飲むとか、酒飲む犬がいるとか聞いたことがあるが、裏を取っていないので、人間以外のことはわからないと言うほかない)。ひとつにはむろん美味だからだろうが、もうひとつは「酩酊に惹かれる心」があるからではないか。心地よい酩酊感に身を委ね、理性や気遣いや狡さ等々、プラス・マイナス併せ持つ「オトナの覚醒」からしばし離れたいと思うからではないか。私自身、常に酩酊していたいと思ったりすることがある。酩酊した勢いで――恋に恋するように駆け抜けることができたら、どれほどいいだろう。
だが、酩酊というのは実は非常に危険なものでもある。勇ましい言葉、カッコイイ言葉に、ともすれば私達は酔う。連打される太鼓の音や血の臭いに酔う。
酔わされまい。愛国心などという空疎な言葉に。○○のために死ぬなどという茶番に。英雄が現れて世界を救うという幻想に。
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