『希望のためのキーワード』(「T.N.君の日記」さんUTSコラム)の文中にあった「エスペラント」。
これは、異なる言語間でコミュニケーションを図る為に考案された人工言語であり、『大辞林』から引用すれば「言語のちがう諸民族間の相互理解を目的とするエスペラント運動は、民族解放思想、反差別思想、平和思想と互いに影響し合い、多様な側面を持つ」ものだ。
反・排外的民族主義性という側面がある為に、過去にはヒトラーやスターリンなどの独裁者によってエスペランティストたちが粛清された歴史もあるのだが、「エスペラント」自体は何ら思想的根拠を持たないため、世界の変革を目指すイデオロギーとは一線を画しているといっていい。
そして「エスペラント」とは、“希望する者”という意味を持つ。
だが、本稿で私が綴りたいのは「エスペラント」のことではない。
実は、真っ先に思い浮かべたのは、今から約40年も前に壮絶なる最期を遂げたエスペランティスト、由比忠之進のことだった。日本に於けるエスペラントの先駆者的存在であり、政治思想とは無縁の平和主義者。彼は、まさに“希望する者”として、己自身の生命を代償とする、儚くも揺るぎ無い「平和」を勝ち得ようとした。
其の身体を、真っ赤な「炎」と化して。
1967年11月11日。
泥沼化したベトナム戦争は、アメリカ合州国の「北爆」開始とともに「狂気」の域へと突入して無辜のベトナム人民を無差別で大量殺戮し、いつ終わるともしれない此の世の地獄を地上に展開し続けていた。反戦運動は世界中に拡がり、日本に於いても学生・労働者を中心に激烈なる闘争が繰り広げられていた。
安倍晋三の血縁でもある当時の佐藤栄作首相は、実兄岸信介の盲目的対米追随路線を受け継いで、ベトナム侵略を全面的に支持し、政治/経済/軍事全ての面で米国を無条件に支えていくことを公言した。
朝日新聞記者であった本多勝一が現地取材したルポルタージュ『戦場の村』をエスペラント語に翻訳し、如何なる政党/セクトにも属さず平和活動に終始していた由比忠之進は、翌日には渡米する佐藤栄作と米国大統領ジョンソンに宛てた抗議文を綴ったのち、首相官邸前へと赴いた。焼身自殺を決行するためだ。
彼の日記(横浜日記)によれば、「死をもって抗議する」ことを一年前から綴っている。
議事堂周辺は、首相訪米阻止のデモで騒然としていた。
自殺直前の走り書き(引用は原文のまま)
今日自殺決行となるとやっぱり興ふんすると見え一晩中抗議書作成その他で一睡もしなかったが少しも眠くなかった。朝出掛けるに当って机上を整理したのだが静(注:由比夫人)は何等疑いをかけなかったので落付いて出掛けられた。死期が迫っているにしては冷静でおられると思って居たのだが虎の門に近ずくに連れ胸がどきどきしだした。
主相公邸に近ずくに連れますますはげしくなった。やっぱり死と云う事は大変な事だ。
愈々公邸の前に来たが通行人が一杯で到底決行が出来ないので素通り、夕方迄待つ事にし遂に山王に来た。石段に掛けて之を書いた。
由比忠之進は、議事堂周辺からデモ隊が一時引き揚げるのを待って、携行したポリエチレンの瓶からガソリンを浴びた。そして、抗議文の入った鞄を道端に置いたのち、自らの服に火を点けた。
一瞬のうちに、上半身は火だるまとなった。
燃え上がる炎と化した其の時、由比忠之進は何を想っていたのか。
降り注ぐ殺傷爆弾によって身を焼かれていったベトナムの子どもたちと同様の無慈悲なる苦痛を其の老いた身体に受け止め、瞬時に蒸発していく涙で翳んだ其の眼に映っていたものとは、いったい何だったのだろうか。
絶望か、希望か。
この残酷極まりない殺戮の時代。
「絶望」の只中に於いて、自らの命と引き換えに「希望」をもたらそうとした、一人の闘う平和主義者の凄まじいまでの炎。
だが、彼の想いとは裏腹に唐突な「自死」を受け入れられない身体細胞はそのまま死滅することを拒否し、傀儡政権の首長が米国へと向けて旅立つのを待っていたかのように、ようやく彼の「意志」を叶えた。佐藤栄作を乗せた飛行機は、残酷にも由比が絶命した9分後に羽田を離陸した。
天空へと舞い上がった由比忠之進の魂を遮り、銀色の翼は彼方へと消えた。
由比忠之進、73歳だった。彼の決意は誰一人知らされていなかった。病院へと駆け付けた家族や友人は、やり場無き怒りと悲しみに震え、茫然と立ち尽くしていたという。
由比忠之進は佐藤栄作に宛てた長文の抗議文で下記のように綴っている。
敗戦時の略奪暴行をつぶさに経験した私は、ベトナムに於けるアメリカの止めどのないエスカレーション、無差別の爆撃、原爆にも劣らぬ残酷極まる新兵器の使用、何の罪もない子供に迄およぶその犠牲、ベトナム民衆の此の苦しみが一日も早く解消されることを心から望んでおります。
たとえ「実現」されようとも、己自身が決して視ることも実感することも叶わない「希望」の行方。それでも、彼は勝ち得ようとした。まるで、絶望の暗闇で喘ぐ人々を「反抗」の深淵へと導いていこうとでもするかのように。
由比忠之進は、己の死をもって真に平和を願う人々の一条の光明と成ろうとしたのか。或いは、卑劣なる権力者への憤怒が突き動かす究極的な「抗議」の表れを、我々に示そうとしたのか。
戦後文学者の高橋和巳は、『暗殺の哲学』と題した論稿で次の様に述べている。
「相手の悪が歴然としていて、相手に向かって武器をとることが道徳的にも許されるだろう際にすら、相手の面前でむしろ自殺してみせる精神、あるいは暴力に報いるに徳をもって絶食し、徹底した非暴力手段でもって相手の道徳心を喚起しようとする行動は、一見恐ろしく迂遠にみえる。しかし、民衆が特有のイメージを賦与している行為類型に従っている限り、非常手段がもつ民衆の精神的覚醒の契機には充分なりうるのである。
政治的手段は、すべての行動がそうであるように、それぞれの生活がいとなまれている固有の状況に規定され、その状況の中で意味をもつ。暗殺から抗議自殺、そして徹底した非暴力的手段も、その状況差によって分岐しつつ、政治抗争の中でより新しき倫理を築きえたものが未来を担いうるという確信において共通する。ということは、共通の意図のもとにも、従来見られなかった抗議行動、抵抗運動、破壊活動がまだまだありうることを意味する。」
由比忠之進が抗議自殺を遂げたのは、この論文が発表された2ヵ月後のことだ。そして、34年後の9月。ニューヨーク貿易センタービルに二機の旅客機が突っ込んだ。
無論、2つのケースは相反する抗議行動であり、抵抗運動である。後者は「運動」とも呼べないかもしれない。ただひとつ「共通」しているのは、己の「死」をもって権力に抗うということだ。一方は極めて孤独の裡に、もう一方は未曾有の罪無き犠牲者を呑み込んで果てていった。「敵」の暴力に対して、より強大な暴力を志向しつつ「抵抗/破壊」する現代のテロリズム。報復の連鎖に埋没したままに歴史に擦り込まれていくのは、終わり無き血の痕跡のみであろう。
由比忠之進の孤独な死は、今もラディカルな問い直しを語り掛ける。
どんな思想にも宗教にもコミットメントせず、国家による人殺しの無意味/残虐性を問い質し、何処までも突き詰め、人間の死とは国家やイデオロギーによって左右されるものではないという「証明」を、其の衝撃的な自死によって伝えた。
由比忠之進の遺書から抜粋する。
私は本日、焼身自殺をもって佐藤首相に抗議する。当事者でない私が焼身自殺するのは物笑いのタネかも知れないが、真の世界平和とベトナム問題の早期解決を念願する人々が私の死をムダにしないことを確信する。
由比忠之進の死から7年後。佐藤栄作は嬉々として「ノーベル平和賞」を受賞した。 だが、そんな愚劣なる茶番を演じた破廉恥野郎よりも、我々の記憶として残り続け、今なお真の「平和」「希望」を語りかけてくるのは、云うまでも無く由比忠之進である。
この狂った世界に、ほんの一瞬だけ燃え上がった炎は、だが確実に未来へと受け継がれていると信じたい。