「敵と味方」という二項対立図式に膠着し、状況から乖離したテーゼの中で同道巡りをしたままに展望の見い出せない「左翼/右翼」を批判する思想史家仲正昌樹は、近著『日本の現代思想』(日本放送出版協会)に於いて、次の如く綴っている。
……「安倍政権の成立によって、弱肉強食の市場原理主義が強化されて、勝ち組/負け組の格差がさらに大きくなり、生きていけなくなった負け組は、徹底した監視システムのもとで、英霊となることに誇りをもつ愛国心教育を施されたうえで、自衛隊海外派兵の要員に改造されることになる」という調子の、何となく辻褄が合っていてよくできた ― 悪く言えば、風が吹けば桶屋が喜ぶ式の ― ストーリーが、安倍政権ができる前から、サヨク業界で循環し続けている……
そして、“生き生き”として「安倍は危険だ」と雄叫びを上げる「新左翼」の学生を視て、仲正昌樹は人知れず嘆くのである。右翼啓蒙/慰撫雑誌『諸君!』等にも寄稿することから、「左翼/反体制」叩きを「生甲斐」とする輩にとって誠に「重宝」するアイロニスト仲正の言説が、返って左/右の二項対立を煽る恰好の素材ともなるというのも、何とも「皮肉」ではあるのだが。
仲正に寄れば、「破綻」したマルクス主義に依拠する「新/旧左翼」という己らの存立基盤とも云うべき「敵」を失った(と勝手に思い込んでいる)「保守/右翼」は、その「代替」を積年の恨みをもつアメリカ、アジア諸国に求めた。つまりは、「左翼/反体制」的言論が大衆へと浸透せず、「右」がより「優勢」となった根拠のひとつが「左」の退廃である、という論旨であり、端的に云えば「左」という範疇で身動きがとれない(と認識されている)「反体制」側は“舐められて”おり、もはや「敵では無い」ということなのだろう。
「皮肉屋」仲正昌樹の上記文言と同種の内容を綴った覚えのある者のひとり(笑)として、些か単純化/誇張した「左」批判に反発することは容易いが、現与党による暴政/愚政に抗うことを自らに課すのであれば、寄って立つ思想/言動をもう一度根源的に問い直し、「状況」へとアクチュアルに向き合う基盤をより柔軟且つ強固にせねばならないだろう。体制に抗う者として、易々と足を掬われないために。
小泉政権時から明白となった身体を震わすほどの「危機感」「不安」の表われを、果たして自身の周りの人々と本当に共有しているのか、と自省すること。「左/右」の二項対立というテーマは今はおくとして、状況を憂うのであれば、自分自身が紛う事無く感じている国家/権力者に対する「嫌悪」「不信」を、隣の人間からも感じとれるのかと改めて視回すことも必要であろう。「安倍は危険だ」と声高に叫んでも、芸能人の下世話なスキャンダルに夢中となっている人に伝わることは決してない。「キミは左翼か」と強張った顔をされて敬遠されるのがオチだ。
「安倍は危険だ」
「でも、たまにテレビで見ると、穏やかで清潔そうだし、奥様も韓流ファンだし、とても身近に感じるけど。それに“美しい国”の何が悪いの?」
此処で、いくら左派の表現を用いても、諭すことなど到底出来はしないだろう。
「安倍は危険だ」
……その通り。だが、それを友人や家族と、そして見知らぬ人々と、どう共有するのか。
体制側は「強靭」であり「狡猾」である。幾ら無智無能の輩ばかりであろうと、大衆を煽動することにかけては、一枚も二枚も上手であり、マスメディアと「結果的」に結託した小泉政権の「郵政民営化」や安倍政権の「教育基本法改<悪>」が為したこととは、曲がりなりにも軌道に乗った「ポピュリズム」によって大衆が「見事」に幻惑された証しである。
さて。
……安倍政権が「誕生」して2ヶ月余り。
急速に「支持率」を下げ続ける此の男は、今では「顔が見えない」と揶揄されているらしい。
果たして「本当」だろうか。
その発言のもとを辿れば、虚飾の「カリスマ」に群がるしか能の無い愚劣政治屋と体制側御用学者らの鬱屈した恨み節に行き着くのだが、担ぎ上げた安倍晋三が本来の「極右」体質を隠し、内政/外政共に過分な「配慮」を行ない「期待」通りの働きをしないことに苛立っている、ということだ。何とも、ブザマである。
だが、対北朝鮮政策で地ならしさせた「極右」安倍晋三の投入によって、国粋主義者どもの呪縛となる「押し付け憲法の打破」までをも眼前にさせている状況にあり、抗う者から視れば、大衆を愚弄する為政者はまさに「順風満帆」そのものだ。
さらには、「支持率」が急落しているからといって、安倍政権が対米追随/国家主義/新自由主義の完遂に「軌道修正」を加えることなど一切無く、むしろ似非「ポピュリズム」から脱却して「ファシズム」としての本性をよりあらわにする可能性の方が高い。安倍晋三が「顔が見えない」ままであるのなら、国家の暴力性を剥き出しにして、より統治し易くすればいい話だ。
「安倍は危険だ」
……その通り。だが、「安倍晋三の側近」も「自民党/公明党」も「政治」自体も「官僚」も「国際情勢」も「環境」も「学校」も「家庭」も「大人/子ども」も……見渡せば「危険」だらけであり、「不安」だらけである。「安倍晋三」とは、そのひとつの「表象」に過ぎない。ならば、どう「抗う」のか。
上記文中に於いて安倍晋三を「極右」と綴り、剥き出しとなるであろう国家暴力を予見する私自身は、仲正昌樹に云わせれば「二項対立」に呪縛され思考停止に陥っている、ということか。けれども、抗うための道を模索することがあろうとも、「抗う」こと自体をやめはしない。
……「風が吹けば桶屋が喜ぶ」
その「桶屋」が卑しい政治屋であるのなら、風に舞う砂塵を事前に封じることこそ「抗う」ことであろう。
志は遥か。
未だ其の途上に於いて。