えー、毎度の遅刻でございますんで、今回はショートバージョンでまいりたいと思います。
さて、あたしは斯くのごとく協調性に欠ける人間ですから、例えば「空気を読む」ことを強いられることに堪えられません。社会生活をそれなりに営んではいますから、場に応じた相応の配慮をすることに吝かではありませんが、それを強いる有形無形の圧力は御免被りたい。
あたしがいつも声を大にして言うことの一つに、「ルールはその場の全員が守る必要があり、かつそれを他者に強いることが当然視されるものですが、マナーとは究極的には自分が周囲と協調して不快を最小限にするための努力の指針であるから、マナーだからと言って他者に強いることはおかしい」というのがあるのですが、どうにも、近年この国では頓にルールとマナーを混同しているように思えてならんのです。
それこそ、寄席へ落語を楽しみに行くにしても、「木戸銭払ったんだから、その日出演した全部の芸人が俺を楽しませないのはおかしい」、なんていうのがいかに野暮か、ってことを考えてもらえば、あたしが言わんとするルールとマナーの違い、っていうことを想像することもできるんじゃないかなぁと思うわけです。
だって、笑いのツボなんて人それぞれに違うわけですから、たとえ東京に4軒、大阪に1軒ある常打ちの寄席、定席なんて言いますが、それぞれの客席キャパが概算で平均して200席ほどですか。満員になったとして200人には200人それぞれの笑いのツボがあるわけですから、ある芸人がある客の笑いのツボにうまくハマっても、別の芸人がその客の笑いのツボにうまくハマらない、なんてことは普通にあり得ますよね。
そんなの、神ならぬ人の身が、やはり神ならぬ人の身を相手にしてるんですから、しょうがないんです。その「しょうがない」部分を見つめつつ、自分の力の及ぶ限りの努力をすることがマナーであって、それは誰が強いることもできないのです。誰かが外から強いたなら、それはマナーとして作用するのではなく、ルールとして作用し、それを実践する心構えといいますか、そういったものが全く違ってまいります。
ルールだから、守らなくてはいけないから、守る。そういうときに、自主性とか、喜びって発生しませんよね。
ところが、この場で私も皆と一緒に楽しみたいから、だからこういったことに気をつける、というようなときには、そこに自主性、自発性が現れますし、それをうまく実践して周囲も自分も楽しめたなら、喜びが生まれます。
苦行は本当に必要なときにすればいいのであって、普段から自分を苦行に追い込んで、しかめっ面して周りも苦行に巻き込んで、そこに喜びが生まれるでしょうか?
ルールを増やすことは、つまりは自分を苦行に追い込んでしまう道だと思うのです。そして、ルールを増やさないでいいように、人は想像力を働かせ、他人の不幸に寄り添ってその苦しみを分かち合い、逆に幸せに寄り添ってその喜びを乗じていくのではないでしょうか。
…というようなことを、Play By Chatの世界で遊びつつ、近年この国で猛烈な勢いで進展する犯罪厳罰化のムーヴメントを薮睨みしながら思うのでした。
あたしは、喜びの連鎖を形成することに貢献したい。
だから、苦行の連鎖を形成するような、なんでも厳罰化し排除すればいいというような考え方を暑苦しいと感じるのです。