わたしが政治に望むこと政治家の多くは政治が技術であり、ドラマであり、戦場であると勘違いしているように思える。わたしは、政治は心であり、日常であり、協調であると思っている。あるべきだと思っている、と言うのが正しいか。
コスタリカでは国会議員に任期があって、10年ほどやるとただのひとに戻る。この宿屋の番頭の顔、どこかで見たことあるな、と思ったら前大統領ということがあるという。スウェーデンでは、国会議員の給料では食えないため他に仕事を持っていて、夕方から議事堂で会議になるという。それでも真剣そのもの、日本の教育基本法「改正」のときのように議長から「会議中に新聞読まないで。携帯で話さないで」などと注意されることはない。
素人が普通の庶民の心で、政治を行う。これが民主主義の社会であって、国が乱れていつ占領されるかわからないマキャベリの時代のイタリアとは違うのだ。何も特別なものではない。特別な技術のあるひとだけにできる秘技であって、バラモンの地位は世襲だなどと信じこんでいたら民主主義の政治はなりたたない。政治家は普通のひとでいいのだ、と言うよりまず普通のひとでなければならないのだ。
こんなことを書いている矢先、麻生外務大臣が国内外の米価を比較する例え話の中で「7万8000円と1万6000円はどちらが高いか。アルツハイマーの人でもわかる」などと発言したらしい。この発言からわかることはこのひとにはまともな人間の感覚がない。そして、選挙前だけ気を付けろというわけではないが、自分の発言がどういう意味を持つかを考える知能がない。この人にあるのは世襲だけである。
このような政治家に何を望むか、答えははっきりしている。それは、何をいっても無駄ということである。民主主義の世の中は我々国民一人一人が作る。だから、占拠でもきちんと意思表示をする。この人は政治家であるべきではないと思えば、迷わず国会議事堂を去ってもらう。なかなかこの勇気を発揮するのは難しい。しかし、我々がその献納と責任を持つことを再度意識するだけでこの日本は変わる。「改革」などと何十年も嘘っ八を叫びつづけ、日本を停滞させる政治から、思い切って変えることができるのは世襲の政治家ではなく、我々国民自身ということだろう。
選挙に行こう。そしてわたしたち自身が思い描く日本にしよう。