こだわることからは縁遠い、ゆるくていいかげんが売りのUTSですが、そのなかでも特に自分に甘い「
そぞろ日記」のmiyauでございます。遅刻してしまいました、申し訳ございません。
最近謝りなれてきて、態度が大きいなどと憤慨なさる方もいらっしゃるかもしれません。
ここのところ体調がすぐれなかったので、なにとぞ平にお許しを…。
さて、気をとり直して、以下本題です!
こだわるということ
一方にこだわるのはよろしくないと考え、他方にこだわることは是というよりむしろ、積極的に肯定されるのは、それぞれ何をどうでもいい瑣末なことと捉え、何を生きていくうえで譲れない重要な事象と捉えるのかという価値観を反映している。
私にとってはUTSを続けることには「こだわり」があり、時間どおりにアップすることには「こだわっていない」ことから、自分自身がUTSを継続することを肯定しているのだと知る。
他人も自分も出来る限りの抑圧を排して十全で自由な自己表現を通して一つの事象にも様々な切り口や見方があり「異なっている」と同時に、人を大事にしたいとか笑顔を見たい とか、人が虐げられるのを見たくないとか、通底する思い、「共通するもの」を発見することができることにある。
殺伐とした日常のみを切り取ることも大事なのだけれど、捻者で皮肉屋・毒舌家を自認する私などは批判は朝飯前だけども、ヘドロを撒き散らすだけの人間を私自身は好かないので、自分の「人間性」を再発見し取り戻す営為としてUTSのコラムを続けている。
私のこだわり
自分自身について省みると、自分のこだわりは「言葉」にあるように思う。
だいたいの大人は言葉をしゃべることが出来る。そして日本国に住んでいる人たちの大半は日本語と言われる言語でコミュニケーションし、思考している。
ただ、「言葉」というのは曖昧だ。物のように実態があるわけではなく、テキストや音声の形で通用している。
しかも人間は嘘をついたりごまかしたり勘違いすることができる。
社会科学という分野は多分にやっかいだ。
専門家同志ならいざ知らず、門外ではなおさら合意の形成の前提である噛みあうことさえむずかしい。
誤解、曲解?
同じ言葉を発するにしても、言う人が誰であるのか、言った状況はどうなのかで意味が全く違ってくる。これを文脈で捉える作業にも齟齬が混じる余地、余白があるのだろう。
例えば、私のような市井の貧乏人が、「私は飢えや貧困に苦しむ人や政治的抑圧に苦しむ人と比べて恵まれている。政治的発言をしたからといって命を狙われるけではない」という小市民的発言をすることと、石原慎太郎がガラパゴスでブランデー片手にふんぞり返って「飢えや貧困に苦しむ人に比べると、日本の若者 はマシだ」なんておこがましい発言をすることを混同することは一般には考えにくいだろう。
しかし、こうしたことを混同する人間は厳然と存在している。言葉を文脈で理解できない人間に、「多少の損なんて知ったこっちゃない。だからもっと抵抗するぞ」に続く言葉と説明しなければならないのか?
石原慎太郎が同様の言葉を吐いた後に続く言葉は「お前ら文句言うな!命があるだけありがたいと思え、黙って俺様たちに搾取されてろ!」だろう。
どこをどうみたら、私が高齢なお金持ちで苦労を知らない特権階級のいばりんぼうお爺様だと思えるのか。どこにも共通点が無い(と思わないと死にたくなる。いや、態度がでかいという共通点はあるのかもしれない)いちいち説明されないとわからないことに愕然とするしかない。
仕方が無いので、この馬鹿発言をした奴の出身大学と学科を詳しく聞いてさらに暗澹としてしまった。「言葉」にかかわる社会科学系の出身であったからだ。ほくそ笑む気持ちも浮かばなかった。マンモス大学の社会科学系だ。王様の耳はロバの耳なのだ。
閑話休題。抽象化ってとても便利だ。誰の何について語っているかがわからなければ、一般論・抽象論として語れば名誉を毀損することは出来ないから問題ない(はずだ)。
言葉を噛み砕いて租借する能力の低い人間はだいたいにおいて言葉の「印象派」「情緒派」ともいえるくらい感覚的に処理している。
日常生活をおくるうえでこの感覚処理は時間をおおいに短縮できるので有効な場合が多いのではあるが、他人とコミュニケーションをとる、相互理解を深めるということには非常に不向きである。
好印象か悪印象かのどちらかに偏りがちで、見解の相違を前提とする共生との間には深い溝を穿つ可能性が高いからだ。
誤解は間違いでしかない
もちろん、詩や文学の受容において絶対はない。解釈の仕方が幅広いのはもちろんだ。
しかし、言葉が言葉であるが故の制約というものはある。
ありえない誤読や間違いは、間違いでしかない。
それをいかに誤っているのかについては、説明するのが存外むずかしい。
定義の問題を間違っているのだとすると、これはこう定義されるのが通常だからどうして異なる定義をするのかを提示してもらえないと、単なる「間違い」ということになるのだ。
そう。単純な間違い。
えへへ。ごめんごめん。と、ズボンのファスナーが開いていることを指摘されたときのように素直に間違いを認めてもらえれば、どうってことない。勘違いだから。
ファスナーが開いている
ところが、不思議なもので「ズボンのファスナー開いてますよ」と指摘されるととたんに激昂して、相手に殴りかかってしまう人もいるものだ。
こちらとしては、ファスナーが開いたままであることが忍びなく、恐る恐る指摘しているのだから感謝して欲しいと思うのだが、「言い方が悪いからファスナーが開いていることを指摘したことを理解してもらえない」という意味不明言語で擁護する人もいる。
わけがわからない。さらに、ファスナーを開けたままであるにもかかわらず、社会性が乏しいそいつは、殴りつけてきて更に「お前のせいで殴った手が痛い」と言う。
ファスナーが開いているのはファッションなのだろうか。ファスナーが開いていることを指摘するのはタブーだったのだろう。
私は、裸の王様の地雷を踏んで「何で裸なの?服を着たらいいのに」と言ってしまったらしいのだ。
いくら内輪で取り巻き連中と社会性の無いお友達連中が「お似合いですよ」といおうが、裸は裸だもの。あー恥ずかしい。
そいつがこだわる形式論を置いてそれ以外実質論で話し合いを試みるも、形式論でループする。一言で言おう。他人を理解する気が無いのだ。
かといっても、形式論の部分で結論を持っているわけでもない。形式論で押し切るならば、私も訴訟で争って勝訴するだけなのだが、そこのところを全くわかんなーいのであろう。
言葉にこだわって伝えたい
思考すること以前の言葉をいかに扱うかの技術が発達していない人に出会うと思う。同じ日本語を話しているのに言っている言葉が理解できないのは何故だと。
だいたいそういう人は、自分がどういう意味の言葉を発していることを理解できていないので、相手にするのはたいそう疲れる。
まあ、とりあえず一般人なら理解できる範囲の説明をして放置するしかない。「自分の頭で考えろ」と言うしかない。
そういう、基本スタンスでいるのではあるが、相手がバカだからと切って捨てることを潔しとできない何かがある。
少しでも人に伝えることを考えて、言葉にこだわって伝えるべきものがあると思うから。伝えることは繋がることだから。