集中力の欠如に悩んでいる「
そぞろ日記」のmiyauでございます。記事を書いてはまとまらず、サイトデザインをいじって遊んでいる今日この頃。みなさまいかがお過ごしでしょうか。
政治とお金という問題を考えていて、いくらが妥当かなんていうことは、実際に政治活動をやったことのない私にはよくわからないということで、抽象的に政治とお金について考察してみました。
「政治とお金」の問題は切っても切り離せない問題だ。なぜなら政治はもともとは一定の集団の方向性を決めることを目的とする。暴力である軍事力や経済力を元にそれぞれが望む「あるべき政治」像を押し付けあうことから始まっているからだ。
人間が集団として存在するところに政治は存在する。実力として暴力を行使することが政治の根本にあるということは、最終的手段が暴力行使の塊である「戦争」や管理された暴力の一種である「刑罰」であることから理解できる。
人間社会の発展に伴ってその実力は「暴力」からそれを象徴する「経済力」になり、それがより「公正」であることが望まれる人間が増えていく過程で、社会全体の望ましい方向性である「理念」や「正論」という概念的なものに変遷してきた。
現在では多くの社会で、あるべき「法(ノモス)の支配」に従うという大義名分が不可欠となっている「道理」と言い換えてもいいだろう。社会的な正当性がいかなる立場にあるのかを争うことが政治の根本といえる。
ただ、あらゆる結論を押し付ける政治的・最終的な決着を「多数決」で行うという点からも、政治はその出自である強制力(「暴力」や「経済力」など)の影響から自由になれないでいる。
それが「社会全体の利益」にかなうかどうか。換言すれば、より多くの人々の福利にかなうかどうかという大義名分があるかどうかということを、社会的に決定する際に、ある特定の主張を広めて回る必要性があり、そこで、暴力の変換物である「経済力」が不可欠の要素となってくる。
国政に例えていうと、消費税を増税すべきかどうかを、社会的に決する場合に増税されると輸出戻し税も増額して有利である輸出産業と生活費の増大する消費者や納税負担が大きくなる中小企業との間で利害が対立する場合などに、賛成・反対どちらの主張をする側も、印刷物や広告を買うなど有形無形の経済力を総動員して主張しあうということになる。
ただ、営利企業は「営利」を目的とすることから生活している個々の人間の利益と必ずしも一致しない。際限なく営利の追求することを野放しにすると、社会に対する弊害(例えば、不当表示や不当解雇、不安定な雇用、労働力の再生産が不能なほどの搾取、環境破壊など)を引き起こし、人間の生存を脅かし、社会を保つことが難しくなる。だからこそ、暴力や経済力といった「実力」だけではない「公正さ」や「ルール」が求められることになるのだ。
山田洋行という会社が、防衛省の元事務次官守屋氏と癒着していた問題に象徴される「政治とお金の問題」は、社会的に決せられるべき取引である公有物の購入について、何をどこからいくらで購入すれば、適正といえるのかということに帰着する。
税金の負担は、大企業が払っていようが、庶民の給与から天引きされていようが、社会経済のなかから支払われていることには変わりなく、一私企業の利益だけを追求することは許されない。
経済力に決定的に格差のある大企業と個人を比較した場合に、無制限に事務次官を接待したり、有力政治家のパーティー券を購入して、特定の会社の営利を追及することを認めていては、必要の無い数億円の品物を、ゴルフ場の代金やパーティー券の購入費用という数千万円の経費で、国民に売りつけることが出来るということになり、税負担によって社会的経費をまかなうという国家システムに対する、構成員の信頼を掘り崩すことで、国家システム自体を崩壊させかねない問題になる。だから、癒着や汚職が社会悪とされているのだ。
翻ってみると、意見の反映のための実力行使の必要性ということから民主主義では自由になれないのだから、政治とお金は切っても切り離せない関係にあるとはいえる。だが、人間は生の暴力から経済力、政治力から社会的に価値ある理念に変遷してきた。願わくば、社会的価値に、一人一人の人間の生存や尊厳を第一にする考え方に基づく政治に、言葉だけではない実践としての政治に発展してほしいものだ。理念も理想も道理も関係なく、資金力だけで政策が決定されてしまうというのでは、身も蓋も無さすぎるのではないだろうか。そんな社会しか作れないのでは、口だけ子供たちに偉そうなことを説教しても信用してもらえなさそうだ。