1日遅れのコラムアップ申し訳ありません。「玄耕庵日乗」の素楽でございます。私事で恐縮ですが、本日勤労感謝の日は「玄耕庵日乗」の先代ブログ「
とわずがたり」を始めた日でありまして、不肖素楽、ブログ生活も丸3年と相成ったわけであります。今まで様々に交流して頂いた方々に、この場をお借りして御礼申し上げます。
さて、今回のお題、政治家と金ということですが、月収12万足らずの正々堂々たる非正規社員でワーキングプアな私めが論じるのは甚だ困難を極めます。自身の生活に妥当な金銭が如何程かもわからない愚か者に、天下国家を論じる政治家先生の収入がどの程度が許容範囲なのかは理解しかねます。しかし政治家先生には下々の暮らしを決定する権限があるようで、生活保護費の削減などを目論んでおられるようであります。彼らには現代社会においてすべての国民が納得しうる形で「健康で文化的な最低限度の生活」が幾らで送れるのか、キチンとした目安があるということであります。いや、素晴らしい。
政治には金がかかると申します。政治学のいっとう最初の頃に教わった政治家についての言葉は「地盤・看板・カバン」でありました。地盤は言わずとしれた代々受け継がれてきた票田、看板は類稀なる知名度、そしてカバンはそのものズバリ金であります。
私は、政治とは「市場の失敗」によってうまく機能しない富の再分配を行うことであり、その再分配の方法の優劣を争うものであると思っているのですが、その決定権を持つ有権者に訴えるには、告知費用がやはりかかってしまいます。そして当選しないことには実際的活動も行えません。そこでより多くの票を獲得するために、「市場の失敗」を乗り越えるために存在するはずだったものが、市場の論理に則らざるをえないというアンビバレンツな存在に堕していくということになります。そして最後は必ず市場の論理の前に打ち負かされます。多くの票と金を流してくれる大企業の言うがままの主張を取り入れ、不確かで金を寄越さない無党派層の存在などは無きに等しいものとみなされます。そして「市場の失敗」は拡大再生産されます。そこに「政治」の存在価値はありません。
政治が市場に打ち負かされないためには、金とは別のスケールで物事を判断しなければなりませんが、現代社会において金ほどすべての物事をスケールできる便利な代物はありません。金以外の価値基準を持って生活することが非常に困難な世の中の仕組みになっています。そんな中で政治と金の様々な醜聞が出てくるのは、当たり前と言えば当たり前です。政治とはいくら高邁な言葉で語られようが、所詮その時代時代の民の意識の反映に過ぎないのです。しかも多数決民主主義の時代であります。みなが金に汚くなれば、政治も金に汚くなります。みなが命を粗末にすれば、政治も命を粗末にします。みなが政治にできることは大きいと思えば政治は大きくなりますし、みなが政治などどれほどのことでもないと思えば、政治の悪影響を最低限に抑えることができるでしょう。そういう意味で、やはりわれわれには政治に責任があるのです。