花というと日本では桜。はかなく散るその美しさ、哀しさが滅びの美学のような芸術をうむことがあるのかもしれないが、残念ながら私は芸術を解しない人間なので、花と散る可憐さのうらで腹一杯ダンゴを食っているやつがいるのではないかと考えてしまう。
先日の朝日新聞(4月30日)によると日本の相対的貧困率が14%弱、ほとんどアメリカに並んでいる。数年前までは確かアメリカの方が3%ほど悪かったように思ったが、ほぼ並んでしまった。そのうえ、日本の生活保護などの予算はなんとアメリカの12分の1らしい。アメリカというと、もともと税金が安くて政府は何もしてくれないばかりでなく、予算の多くを戦争に割いているような国なのに、それでも税金の高い日本の12倍も貧困対策の支出をしている(岩波「世界」5月号)。
数年前といえば、特攻隊を賛美する首相に続いて美しい国を唱道する首相が誕生した頃である。彼にとって国民が美しく花と散る国が美しい国だったのかもしれない。それはただ戦争をする国ではない。幾度となく戦争をしてきた国ならたくさんある。過酷な植民地支配をしてきた国だってたくさんある。しかし、自国民をあれほど大量に直接的な死に向かわせるような戦争をした国は、そしてその裏で幹部が夜な夜な酒盛りを繰り返した国など世界史上あったのだろうか。
それを支える風景の一つに桜がある.勇敢に戦った戦士の死を讃えるのは当然である。私だって、その勇敢さを讃え、霊を慰めたいと心から思う。そのために追悼の施設が必要なのも当然だ。しかし、生きている人間に直接的に死を強制し、死ねば神になって讃えてもらえる、と国民を死に追いやる装置。生きている人間を死に追いやる装置は、死んでから顕彰される戦士の墓などと意味が違う。美しい桜の咲くこの装置に政治家たちが毎年お参りするような国の花はとてももの悲しい。
今年もまた九段下の桜はきれいで、咲いたとたんに強風で散り始めた。その花吹雪に毎日のように飛び込んでくる生活苦による餓死や自殺のニュースが重なる。勝つ見込みなど一切ないことがわかっていながら、死を強制された人たちの霊は、いのちを削って働いても豊かになれない人たちをみて何を思うだろうか。息苦しさから自ら死刑を望んで大量殺人を犯す人たち、生活苦から戦争を望む人たち、こんな日本のために自分は散ったのかと思うのではないか。
以前は私にとって、九段下の桜は過去のはかなさの象徴でしかなかった。しかし、今はまた新たに散るいのちを予感させるほど悲しい花になった。
こんな悲しい花はいらない。花よりダンゴ・・・品のない言葉のように思っていたが、最近になってなんだか本当の意味がわかるような気がしてきた。
古人たちの、桜を見て心が騒ぐほどの春を感じられるようになるのはいつのことなのだろうか。